- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」~第1回~古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(後半)

前半の続きです。
日本には航海技術を持つ集団が古代から多く有り、彼らが古代市場の形成に大きく関与していた
4326602120.09.MZZZZZZZ.jpg
【贈与ネットワークから商品生産への移行】
縄文後期にはそれら贈与物の生産拠点が整備される段階に入る。大規模な黒曜石の加工場や岩塩の精製工場が長野県や千葉県に確認されており、贈与の対象としての貴重品のやりとりの段階から実用する商品生産の段階に縄文後期には移行している事をうかがわせる。
すでに交易や商品市場の始まりと呼んでもよいような状況であるが、略奪闘争や戦争を介さずに市場が始まることは他地域での古代市場の発祥事例から見ても成立しない。やはりそれらも贈与ネットワークの延長にあったと思われる。


これら広域へのネットワーク拡大の理由は縄文時代の集団分派の構造にあると思われる。
縄文時代は採取経済であった為、広域の縄張りが必要で一つの集団が抱えることのできる人口は限られていた。温暖化により人口が増大し集団規模が拡大すると必然的に分派して他地域へ移動することになる。この際に隣接する地域には既に別の集団が存在するのが通常だから、海や川を伝って遠方へ移動しなければならない。この分派の連続が母集団と繋がる広域の分派集団のネットワークを形成し、併せて分業化を推進していったのではないだろうか。
<参考記事>
縄文ネットワークは同族集団の分業の可能性もある [1]
贈与による隣接する集団間での友好関係の構築、集団分派による遠方、広域へのネットワークの拡大、さらに交差婚による集団間の交流、これらが多様に組み合わさり、複数のネットワークが縄文晩期には形成されていたものと思われる。
【贈与という抜け道とその延長である日本の市場史】
集団間の縄張りが接触する際には必ず緊張圧力が生じ、人類が取ってきた手法は2つである。
贈与による緊張緩和か武力による戦闘かである。
外圧環境の厳しい砂漠地帯にあったメソポタミア地域では贈与経済が戦争勃発によって破壊され、それから以降は戦争につぐ戦争であっという間に集団間は武力(=力の原理)で統合された。中国においてもしかりである。
uru.jpg
日本は島国であり、海という最大の防衛力をもち、自然外圧もそれほど厳しくない。それにより戦争をしない為の「贈与=友好のシステム」を継続させ、さらにその後の時代に適用させることで戦争を回避してきたのではないか。
顕著な事例が古墳であり、巨大古墳作りを互いに競争する事で肉弾戦を回避した。近年まで残存していた談合も贈与システムの亜流と捉える事もできる。
日本の市場史を見ていく際に、友好の証であり圧力の抜け道としても作られた縄文時代の贈与ネットワークは一定考慮に加えておく必要があるのではないかと思う。
<参考~網野史観に関するるいネット投稿>
海洋民族としての縄文史観(1)~古代交易ネットワークの形成 [2]
海洋民族としての縄文史観(2)~弥生時代の担い手も海洋民 [3]
海洋民族としての縄文史観(3)~東西の2つの海洋経路 [4]
さて、次回は古墳時代を経て律令制が敷かれる奈良時代前半までの古代市場史を追いかけていきます。日本の古代市場発達の鍵を握ったものは何だったのか?その答えが明らかになります。お楽しみに!

[5] [6] [7]