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王朝文化が生まれた土壌とその産物

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします
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お正月最終日、どのようにお過ごしでしょうか?
競技かるたを題材にした「ちはやふる」という漫画がはやっているとも聞きますが、
ひさびさに「百人一首」に興じられたことも多いのではないでしょうか?
好きな歌、18番の歌、心を寄せる歌人・・、みなさん想いは色々あるでしょうが、
今日は、やや硬派!
百人一首の中心をなす平安時代の王朝文化とはどういうものだったのか?古代から何を受け継ぎ、中世に何に繋いだのかを探索してみたいと思います。
参考にしたのは、関幸彦「百人一首の歴史学」という書籍です。
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王朝文化が生まれた土壌には、まず、遣唐使廃止(894年)がありました。政治も宗教も文化も、常に中国(唐)に追いつけ、追い越せを目標としてきた古代日本から、一転して内向きへの転換。融合と自立といった文化的成熟が訪れます。それは、律令制度の発達と租庸調という税制の安定がもたらした「国としての余裕の帰結である」と言い換えてもいいかもしれません。

日本における中国的な修史事業、六国史の最後「三大実録」は延喜元年(901)に完成。外向きの国家の姿勢は、遣唐使廃止によって内向きへと転換する。延喜5年の「古今和歌集」の勅撰はその象徴で、漢文ではなく和歌という形でこれを実現したのは文字における民族的自我の確立ということになる。その意味では国家の修史事業は、六国史から勅撰和歌集の編纂事業へと変わった。和歌はまさに内向けのアピール声明としての性格をもつことになる。
「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける」とかなの序文で掲げた「古今和歌集」は、そうした感性の象徴だ。「百人一首」に収載されている歌の多くも、当然ながら、この「古今和歌集」的余光の延長にあった。「百人一首」収載歌中における勅撰集の割合は「古今和歌集」が群を抜く。
それでは「百人一首」を生み出す王朝文化の土壌とはいかなるものであったのか。それを国風文化の面からながめれば、一つは文化の融合性であり、一つは自立性という表現で理解できる。かなの形成に伴う漢語と和語の融合に見る独自の表現形式は、その象徴ともいえる。
詠み手のなかには、中央貴族の権門もあるが、中下級貴族たる受領たちやかれらを縁者にもつ女房たちも存在する。一般民衆とは一線を画するかれらが登場することで、都鄙(とひ、中央と地方)往還の政治レベルの流れが文化にも反映され、中央と地方の交流・融合がみられる。国家と社会とのあいだに埋めがたい距離が横たわっていた古代の時代とは異なり、この王朝の時代、両者の溝が狭まりつつあったことは疑いない。
律令的文明主義を是として、これを外来文化として受容した古代世界は大きく変化した。伝統的な基層文化との結合を可能にさせる条件が生まれたのである。外来文化と基層文化の融合という中世の到来を予想させる。

昨年話題になった、水村美苗「日本語が亡びるとき」では、日本語の成熟を平安前期に置いている。

<現地語>とは、ふつう、たとえ読書人の男が書いたとしても、読書人の男に向かって書かれるものではなく、その妻や子供に向かって書かれるものである。ところが、日本では、遣唐使を送るのも間遠になり、日本が内向きになるに従い、<現地語>の象徴ともいうべきひらがな文を、読書人の男が進んで使うようになっていった。最初の兆候は、まずは、和歌という<現地語>の文芸の地位が上がっていったことに現れる。
二重言語者でもありながら歌人でもあった紀貫之が、ひらがな文の「仮名序」を『古今和歌集』に書いたのは有名である。
やまと歌は人の心をたねとして、よろづのことのはとぞなれりける
そのあと、紀貫之はわざわざ女になりすまして、例の『土佐日記』を書く。
男もすなる日記というものを女もしてみむとてするなり
日本の文学史の、えもいわれぬおもしろさ、おかしさが、この一行につまっている。

紀貫之は藤原氏との権力闘争に敗れた紀氏の末裔で、土佐守を務めた官吏。すでに当時、上流貴族とは言いがたい存在ながら、その歌才を認められ、醍醐天皇直々に、初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂を命じられている。「芸は身を助く」がごとく、歌才が職能に直結しはじめた。
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万葉的世界では歌は文化という形で自立・自覚化されていない。文化の無自覚性ゆえに、その素朴さに注目することはできる。が、古今的世界では、生活から分離された高踏的な洗練のされ方が歌にも反映されることになる。王朝期の「ことわざしげき」(ものごとが気ぜわしくなること)時代のなかで「古今和歌集」が指摘する「鬼神をもなごます」所為として、ことばを通じて精神を剛磨しようとする方向といえる。その限りでは、和歌の自覚的効用にはやはり時代の成熟が必要となる。
例えば「百人一首」では、感情を言説化するために多くの修辞的表現が用いられている。好みか否かは別にしても、詠み手の感情の醸し出し方が巧みであることはまちがいない。とりわけ恋の歌には、詠み手の情念の紡ぎ方が理知的であり、それだけに歌の詠じ方の豊かさが反映されている。
この時代、歌才という職能の道は寒門たる下級貴族たちの飛躍につながった。

一方、中央と地方の距離は、人(官吏とその周囲)の往還という実態を伴って縮まり、歌にその証左をみることもできる。

百人一首では、大和、山城、摂津、近江など都の周辺が圧倒的に多いが、他方で常陸や陸奥などの地名が見られることは注目される。「名所」なり「歌枕」なりは「万葉集」以来、諸種の歌に登場するが、そこにはやはり国司・受領による諸国往還が少なからず影響を与えた。
百人の詠み人のうち6割を占める58人が官人で、その過半が国司経験者だったことを考慮すれば、諸国の「名所」への観念がかれらの意識にすり込まれていたはずだろう。かれらは都鄙を往還しながら地方に留住して勢力拡大をはかり、田地の経営(私営田)にあたる領主たちでもあった。こうした私営田領主が、一方で兵(つわもの)と呼ばれたのである。
地方に拠点をもちつつも、中央との人的チャンネルを保持し、物情騒然とした地方において治安維持に一定の役割を演じる。兵は一方では騒擾の主体となり、他方ではこれを鎮圧する立場にもなった。兵たちは都鄙往還という情況のなかで、文人貴族たちの地方下向にさいし、その警護の任にも当たっていた。平安中期以降に誕生した王朝国家は、それまで中央(都)と地方(鄙)で隔絶していた落差を、人的交流の面から小さくしていくことになった。

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国司の往還は、私有田と、それを護衛・警護する兵(つわもの)の出現を先導する。武士の台頭であった。
そこには、天皇と上流貴族を中心とした中央の公家社会が、漢文、和歌、雅楽にうつつを抜かし、地方を行ったり来たりする中・下流貴族がそれを地方に広めるなか、その生産基盤を守る(=警護する)武士を中心とした武家社会にとってかわられる予兆が見える。
階層にとらわれず、広く門戸を開くことを目的とした中国の「科挙制度」よりも、日本の和歌は、広く人材を登用する機会を提供し、結果として、社会構造そのものを変える力をもっていた。さらに、和歌は、宮廷サロンという、性的商品価値を最高価値とした市場形成の先鞭をつけた。
武士でありながら、うつつの世界に羨望を抱き続けた平氏が敗れたのは歴史の必定だったといえる。
うらら

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