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明治維新とは日本史にとって何だったのか?

こんばんわ。2009年もいよいよ最終日です。今年も縄文ー古代ブログをご愛読いただきありがとうございました。来年も益々の追求をしてまいりますのでご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
今日は明治維新について少し考えてみたいと思います。
昨年辺りから幕末から明治の歴史についてのキャンペーンがマスコミを初め書店などで多く行われています。2010年は明治維新が注目される事になるかもしれません。このことは変革を求める現在の時代意識を反映しているのかもしれませんが、明治維新とは何だったのかという歴史総括は現在でもさまざまで、実のところ事実はあきらかにされておらず、よくわからないというのが実態ではないかと思います。
幕末から明治維新について一般的に言われているのは以下のような事です。

①江戸時代の町民、商人の人口増、経済力の上昇と徳川400年で生じてきた封建社会による制度的限界の打破
②西欧列強国からの開国の圧力、さらに植民地化への危機感
幕府と朝廷という2極体制を終焉し、より中央集権度の高い天皇制を中心とした国家官僚体制の構築を実現することで西欧列強国に劣らない近代国家として自立する。その為の軍事強化を図る。

1853Yokohama_01.jpg
大半の学者や教科書はこの時期に開国して明治維新を行う事は歴史の必然であり、それがなければ今日の日本の繁栄はなかったとする赴きが強く私達はほとんどそれを無条件に受け入れているのではないかと思うのです。
即ち、明治維新とは何かを問う事もしなければ、明治維新とは歴史上必然かつ、日本の歴史において最も輝かしい出来事であるという固定史観が定着しているのではないでしょうか?しかし歴史を見ていくとあまりにも不自然な事がこの時代には多くあります。
私も幕末から明治維新についてはまだ浅い知識しかなく、ここで展開するほどの史観まで持ち合わせていませんが、今日は幕末から維新の大きな流れとそれに対する問題意識までを投稿させていただきます。
併せて、幕末から明治についてはこのブログでも来年どこかで取り上げていただけるのではないかと期待しています。
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封建体制の綻び~商人発の体制への揺さぶり
17世紀中頃から後半にかけて人口の増大に相まって農業技術の向上、生産の効率が急上昇し、それと併せて工業生産、それを流通させる商人の経済力も上昇していった。
江戸時代は参勤交代というシステムによりさらに貨幣経済が全国に行き渡り、農業にも商業的要素が広がっていく。17世紀後半には江戸、大阪、京都で巨大商人が両替店となり幕府にも金を流通させる高利貸しとなっていく。
江戸の越後屋が代表格で、その後日本一の金融資本家三井組として全国的な金融取引をおこない、力をつけていった。
商人も含めた都市平民の経済力の上昇が相対的にそれを牛耳る支配階級である武士の力を弱め、封建体制は弱化していく。それが17世紀後半から18世紀末にかけての江戸の状況であった。
成長した豪商に対して時の幕府はおごりが過ぎるとしてたびたび取り潰しや没収を行うがそれが繰り返されると制度矛盾が表面化し、社会秩序の混乱をもたらした。
市民階級の興り~学問の普及
江戸時代に自然発生した寺子屋や手習い塾により町民や農民に学問が広がっていったが、その事が支配層にだけとどまってきた学問を大衆に広げる事になった。初期には儒教は朱子学として封建社会の規範教育を広げる学問として重んじられたが、後にそれを規範のおしつけと批判する陽明学が広がり、現実そのものから理論を構成する学者が出て来る。同時に自然科学、医学、農学などの分野でも中国に拠らない独自の学問が芽生えるようになる。元禄時代をまたいで登場したそれら下級武士や町人から輩出した知識人たちの流れが後で幕藩体制の諸矛盾を解決していこうとする勢力になっていく。
諸外国からの開国の圧力
19世紀に入るとロシアを初めフランス、イギリスから度々通商を求められるようになる。度々幕府はこれらの交渉に強硬に抗じていくが、1842年イギリスが清国に戦争(阿片戦争)で勝利すると情勢が変わってくる。香港を植民地にした英国は日本に渡来して圧力をかけるようになる。これら列強からの圧力の高まりに対して幕府は防衛という形で抵抗していたが、ついにアメリカのペリーが入港した翌年1854年に通商の要求を呑まざるを得なくなる。続いてロシア、フランス、英国とも通商だけでなく滞在といった条約を次々と結んでいく。明治維新の10年前にはこれらの国との不平等条約は既に締結されていった。それらの交渉失敗はは日本が植民地化されるか否かの瀬戸際であった。
1863年から5年間に渡る倒幕運動
元々は国内の秩序を強化し外国に対抗していく思想であった尊皇攘夷の思想が幕末には討幕運動の旗印として使われていく。下級武士の間に登場した尊皇攘夷運動が1863年に起きると、幕末まで激しい戦乱状態に陥る。一説にはイギリスのグラバーが薩長を手を組んで倒幕を裏から手引きしていたと言う黒幕説もあるが、ロスチャイルド系の金融資本家として日本に食い込んでいた彼らなら十分に考えられる手口ではある。
坂本竜馬は当初彼らと手を結んでいたが、途中で陰謀に気がつき反転した動きを始めたことによって消されたという説もある。
いずれにせよ、多くの血を流した幕末を経て江戸時代は幕を閉じるわけであるが、一番わかりにくいのがこの時代である。
なぜ尊皇攘夷運動などが起きたのか、なぜ薩長が手を組んで新政府軍を作ったのか、それによってできた明治政府はなぜ全国を統一する官僚国家を作り得たのか・・。この辺りは謎であり本質が見えてこない。
明治維新
1868年、明治維新が行われ、天皇制を中心とした官僚国家が構築される。
この時に体制の参考にしたのがイギリスであり、2年後に発布された明治憲法は英国・独国をモデルにして作られたとされている。しかし根本的な部分である民主主義や主権在民といった憲法の主旨は盛り込まれておらず、民主主義への転換は大正時代まで持ち越される事になる。
明治維新の目的は民主化ではなく、近代軍事国家への転身であり、その為の産業の復興(富国強兵・殖産興業)、それに向けての大衆の洗脳(教育勅語)であった。
憲法はその為の飾りにすぎなかった。維新の直ぐ後に廃藩置県が行われ、兵部省がおかれ警察官僚が全国に敷かれ軍事体制を構築する。さらに義務教育の開始、大学が置かれ大衆の洗脳機関が整う。
一方西欧文明は積極的に取り入れられた。岩倉使節団がヨーロッパに派遣され、キリスト教文化を持ち帰る。政府はそれまで徹底して排除してきたキリスト教を明治時代初頭に条件付で受け入れる事を認めていく。こうして西欧化の流れは一気に進んでいった。
弥生、奈良時代の外国文化の吸収がいずれも渡来してきたものを受け入れると言う形であったのが明治時代初めて自ら出て行き、取り入れるという形態をとった。同じ異文化の受け入れとは言え、ここが大きな違いであり違和感を感じる部分である。
明治維新で諸外国に対抗する強い日本を作るという理念は理解できるが、既に江戸時代に西欧に対抗しそれ以上の文化水準、教育水準を要していた日本になぜ西欧化が必要になったのか?そこがわからない。
もし明治維新が英国の金融資本家のコントロールの下で行われていたとしたら、植民地化計画の戦略に乗っ取って日本を西欧化していくという筋書きがあったのではないかと思われる。いずれにしても売国奴に相当する西洋傾斜の一派が維新をリードしていた事は間違いない。

参考:日本の歴史~井上清著
詳説 日本史図録~山川出版
明治維新とはなんだったのか ブログ灼熱 [3]
日本のフリーメーソン [4]

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