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精霊や自然と語り合える(通ずる)能力

 だれしもが自然(川、海、森や植物など)を前にして、声が聞こえてきたかのような感覚になったことがあるのではないでしょうか。実は、霊や自然と語り合える(通ずる)という能力は何も特殊な人だけでなく、本来はどんな人にも普遍的に備わっているのではないではないかと思います。現代人は自我や警戒心が邪魔して(あるいは余計な観念が邪魔して)すっかりやせ細ってしまっているという事なのでしょう。
 このような感覚、回路は何に由来しているのか。それは「サルから人類に至るまでの進化」と「農業」の事例から理解できます。 るいネット の「例えば自分の足の裏に感謝してみる」、「上中町企画需要分析③体験教育(農が教育に及ぼす効果)」  北村浩司氏 の投稿 から紹介(一部省略しています)します。
 
yam0015-009_m.jpg t_02.jpg写真はhttp://www.linkstyle.co.jp/free/nature_scene/yam/yam0015-009.html [1]からお借りしました
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 AV監督の代々木忠氏が、心を開くというテーマのなかで言っていた「(心を開くためには)もっとも身近な存在、例えば自分の足の裏や、身近な植物に対して自分の1日や生活を振り返って具体的に感謝してみる・・・」という感覚。
るいネット 「例えば自分の足の裏に感謝してみる」  北村浩司氏
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=9982 [4]
 
 

精霊や自然と語り合える(通ずる)という能力(脳回路)は何に由来するものなのでしょうか?少し私なりに考えてみたいと思います。
 その手がかりとして、男女の談話室で時々話題に上がる、AV監督の代々木忠氏が、心を開くというテーマのなかで次のような事を言っていました。
 「(心を開くためには)もっとも身近な存在、例えば自分の足の裏や、身近な植物に対して自分の1日や生活を振り返って具体的に感謝してみる・・・」
 
 彼は心を開くことを相手に委ねる事、相手に包まれている充足感として捉えています。要するに余計な思いを棄てよ!という事なのだと思いますが、その鍵になるのが、応えてくれる相手にたいする感謝の思い(の回路を強くしていく=太くしていく)という事である様です。
 大串さんや高橋さんも仰っしゃている様に、まずそれを自然物に対して実行すれば、人間にたいしても、徐々にそれが可能になるということなのでしょう。
 この事は論理的にもある程度納得がいきます。
 
 おそらくこの回路が形成されたのは今の話とは逆で対人間→対自然の順だと思われます。
 つまり自然に対する対話や自然との一体感は、元々人類が持っていた同類=仲間にたいする感覚(その中で培った原基的な脳回路)を自然に対して、転用していると解釈できます。

 「実現論」では、この回路の由来は、「原猿の不全感→相手注視(探索)→相手の同一視による安心感→相手の肯定視(共認原回路、共感回路)」にあると説明されています。(実現論1_4_05)http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=4#05 [5]
 つまり支えてくれる相手(仲間)の肯定視=感謝の回路が、この能力の原点にあるという事なのでは無いでしょうか?
 あるいは細ってしまったこの能力を意識的に駆動させるために、植物などに向って素朴な気持ちで感謝する事によって、それに近い位置の回路が開かれるということでしょうか。
  ただもちろん自然と人間とは違いがあります、自然は人間にとっては自らの認識能力を遥かに超えた、超越的な存在だったでしょう。
 つまり原猿から引き継がれた同一視→感謝の回路を土台として、自然に対する超越観+相手注視=「相手の発するかすかな声にひたすら耳を傾け、読み取ろうとする」、探索思考が結びついて成立したものといえるのではないでしょうか。

 
 仮にそうであるとすれば、相手にたいする同一視と超越視という一見矛盾するものがどのような関係にあるのかが少し問題になります。不全感を解消させてくれる相手=仲間は人間にとって、自分=主体を超えた超越的存在でもあったということなのかもしれません。

農の持つ「効用」で、自然体験や生活体験(果物の皮をむく、野菜を包丁で切る等)の有無や頻度と、道徳観・正義感(ex.友達が悪い事をしていたら止めさせる、席を譲る等)とは強い相関関係があるという事例。
るいネット「上中町企画需要分析③体験教育(農が教育に及ぼす効果)」  北村浩司氏
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=9441 [6]
 

子供達のひ弱さや、精神欠陥の激増、生活の知恵の欠如等の現状を受けて、自然体験・農業体験が拡大しています。
 農の持つ「効用」で、実感上及びデータ上確かめられていることとして、自然体験や生活体験(果物の皮をむく、野菜を包丁で切る等)の有無や頻度と、道徳観・正義感(ex.友達が悪い事をしていたら止めさせる、席を譲る等)とは強い相関関係があるという点が上げられます。
 おそらくそれは、自然の圧力を前にしての自己の制御、自然の持つ癒し効果による充足感情、協働作業による達成感や一体感の充足の体験等に起因するものと考えられます。また体や手を動かす事と、自我の制御とが何らかの形で関わっているのかもしれません。
 
 また他にもうつ病や拒人症の治療において、農作業が組み込まれた治療法がいくつか実践されています。関西では例えば、藤岡氏が主催する三重県名張市の「赤目診療所」が上げられますし、これだけでなく心理療法の一つである「森田療法」では、農作業が治療上プログラム化されているものがあります。
また古くは明治維新の際に、社会的役割を失い、精神的空白に陥った士族を立ち直らせるため、規則正しい「農生活」を送らせ再生させた事例もある様です。
 実際に人の心に「農」がどのような作用を及ぼしているのかは、理論的には実は私も良く分かりません。
 
ただ人間が共認動物であり、期待と応望を活力源とする存在である、ということを考えれば、おそらくこれらの回路を真っ当に開いていくという効用を持つということなのでは無いかと考えられます。
 その点で思い起こされるのが、長年農業を行っている篤農家は稲などの作物と会話ができるらしいということです。実際会話を行っていく事で作物の健康状態や何が足りないかがわかる様です。
 話は脱線しますがヤマギシ会を創設した山岸巳代蔵氏は(彼は元々発明家であったようですが)稲と1日中会話していた人であり、このるいネットの「男女」の掲示板で議論されている「本源の性」(と思われる)を実践できた人でもあった様です。
つまり応望回路が非常に発達していた人のようです。
 元々人類はサル以来築き上げた、期待応望回路を自然を対象に転用し、自然の声を聞き取っていました。物言わぬ植物達の、ほんの僅かの現象上の変化を、応望回路を用いて捉え、その植物たちの声に応える事で充足を得るという形で、日常は「自我」の圧力が邪魔して開けない応望回路が素直に開かれていく。作物と接するということはそういうことなのではないか?と私は解釈しています。

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