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日本古代;征服部族が作り上げた支配構造2

日本の皇統の歴史とその背後の支配勢力は、古代より、大王(おおきみ・天皇)の密命として蠢いていました。何時しかその歴史の中で、皇統より武力、観念力、技術力、資金力を持つようになり、大王を凌駕する経緯を未来狂冗談氏の「皇統と鵺の影人 第ニ巻」 [1]からおって見ました。このサイトを拝読して、冗談氏の切り口と独自の展開による説を展開していますので、とても面白いサイトであると思い、ご紹介します。第一巻に続き、かなり長編大作でした。その要約としてのポイントを以下にまとめてみましたので、サイトを一読されたし。
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左から、一文字菊(天皇家紋章の元)・その紋章・役小角像
日本古代;征服部族が作り上げた支配構造 [2]もどうぞ。
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★冗談氏曰く、【征服氏族の争う理由は、神代からずっと領地の拡大と覇権である。】という。大王=天皇の密使は、どのようになっていったか?この視点で、見ていきましょう。
◆地方行政を監査・監督する勘解由使
陰陽寮・受領を監視するための勘解由使 [5]

葛城 [6]賀茂氏 [7]の系譜の役(賀茂)小角(えんの(かも)おずぬ) [8]が編成した陰陽組織は葛城朝の私兵的組織だった。その役目は、「山岳ゲリラの鎮圧と恭順」、帝(天皇)の「ある密命(大王の密命)の履行」などであり、非公式な活動であった。
・その時代、前任の国司やその親族、家臣が、在地領主化して定住した為に、新任で赴任して来る者との間には、権限と既得権益の争いが発生する。その結果、地方行政を監査・監督する勘解由使の職が新設される事となった。この解由状 [9]による受領(ずりょう) [10]を観察する役目の行政監査官が「陰陽助(陰陽寮次官)」勘解由小路(かでのこうじ・賀茂)家の「勘解由使(かげゆし)」 [11]である。
・神官と武士は、元を正せば両者同じ。永きに渡り、神官と武士は表裏一体のもの。
・仏教が伝来して以来、僧兵と言う僧侶兼武士が発生したが、その時代も「武」は修験山伏を祖としていた。この「勘解由小路(かでのこうじ)党」は、その生い立ちから活動まで帝=天皇の秘せる諜報工作を受け持っていた所から、日本史の正史にはほとんど顔を出さない謎の組織である。
・彼らは、密命を秘めてその土地に土着、皇統に事ある時に備えていた。或る者は僧侶、或る者は神官、或る者は修験者(山伏)、或る者は郷士に身をやつし、「十数代に渡って皇統護持の使命を果たさんとする覚悟の者ども」であった。そうした彼らの事実は修験道師であり、神官、僧侶、僧兵、郷士、小領主(国人領主)であり、白拍子 [12]だったのである。
・広く知識を修め、武術を修めた彼らは、受け入れた土地で認められ、指導的な立場に立ち、やがて支配階級とは一線を画す、興味深い独特の村文化(庶民の文化)を醸成する事になる。下層氏族(有姓百姓)の武農兼業集団に拠る独立統治組織の土着衆を各地に生み出したのである。そうして、各地に潜伏した勘解由小路党ができあがった。

※地方に散らばった家臣が、搾取、私有してしまわないように、しっかりと中央の言付けを守らせる役が、勘解由使 [11]であり、警察、諜報機関の役割であったということです。これを当初は、葛城氏系譜の賀茂氏が担っていたのです。天皇直轄の秘密警察といったところです。彼らは、地元に根付き、土着文化を生み出し、各地に勘解由使党を作っていきます。
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下鴨神社と山城国一之宮の上賀茂神社 
◆藤原氏、源氏と平氏は、中央からの密使。だが、皇統以上の勢力を超え、次の密使が派遣された。
~皇統による氏族勢力のバランスへの腐心~

・地方豪族、地方国主(臣王)の集合体をまとめていた朝廷(帝)の権威は、ご託宣(神の助言による統治)である。そして地方統治は、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を持って行なっていた。神の権威を持って任ずる帝=天皇に、武力は不要の筈だった。
・帝の代わりに、中央から派遣されて朝廷の地方行政業務を代行したのが、強力な武力(私兵)を背景にした藤原氏 [13]の一党である。
藤原氏 [13]の勢力が衰え始めた平安中期頃になると、中央から派遣された地方行政官としての藤原氏は無力化し、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を拡大して勝手な領地争いを始め出した。
・長く太政大臣を独占していた藤原一族 [13]の勢力が、衰え、地方の政治運営が乱れていた時、藤原氏と深く結び付いた河内源氏(源義家一党) [14]は皇統としては邪魔となった。大王は、対抗するもう一方の武門の旗頭、平氏 [15]の力の育成に密かに腐心していた。桓武天皇(第五十代) [16]の皇子「勝原(かつはら)親王(※葛原親王ともいう)」 [17]に端を発する皇胤(こういん)貴族の血統賜姓の「平(氏)」を賜った高貴な血筋の武家の一門が、朝廷の正規軍として期待されていたのである。
・その平氏が、独自に実力を強め、帝のコントロールからはずれ始めると、次に送り出したのが同じ皇胤(こういん)貴族の「源(氏)」 [18]清和(せいわ)源氏 [19]は、清和天皇(第六十四代) [20]に端を発する高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。
元々修験山伏 [21]に端を発する武術をもって生まれた軍事組織が、平氏であり源氏である。そして、組織の中核をなすのは同族集団の結束である。有力な他人を仲間に入れても、娘など与え、婚姻関係を介して取り込む事が多い。それ故、その棟梁には子沢山が要求された。それが叶わぬ時は、一旦養女養子を儲ける方法がなされて、同族関係を成立させていた。

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桓武天皇と清和天皇に進言する太政大臣藤原良房
◆平家の伸張と皇統の対立

・清盛の勢力の伸張に対して、後白河上皇(出家して法皇) [22]を始めとする院の政勢力は、次第に清盛と対立を深めて行く。清盛平家 [23]が、公然と「鵺」に変貌し、土御門(安倍)家 [24]と組んで朝廷と皇統の簒奪(さんだつ)を始めたのである。
・対抗する組織は、賀茂氏の流れを汲む勘解由小路家を於いて他に無い。当然、勘解由小路と土御門との間に暗闘が起こるが、公家化した土御門と違い、「在地の草」と呼ばれる郷士、陰陽修験行者などの実践部隊の大半は勘解由小路のみが掌握していた。
・源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」 [25]が始まって行く。

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平清盛と源平合戦図屏風
◆源氏・清原 氏(藤原氏)vs 平氏・土御門(安倍)

・平安末期から鎌倉初期、蝦夷族内部の指導権争いで、土御門(安倍)家一本だった体制が、清原(藤原)家 [26]の台頭で分裂する。この清原家、源氏を武門の棟梁の血筋と決定付け、源義家を名乗り、源頼朝の五代前の源氏の棟梁である八幡太郎源義家 [27]に付き、奥州安倍家を滅ぼし、東北(奥州)全域を手中にして藤原家から藤原姓を貰った言わば藤原、源氏、清原(奥州藤原) [28]である。それに対抗するのが、平氏、土御門(安倍)と言う構図が成立。

※源氏vs平氏、安倍氏vs清原氏(藤原氏)という対立の構図から、源氏・清原 氏(藤原氏)vs 平氏・土御門(安倍)という構図。
後醍醐天皇 [29]による鎌倉幕府倒幕と足利尊氏 [30]の皇統(権力)簒奪・武力にせめぎあい。

北条(平)政子 [31]が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」 [32]も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、屋台骨が揺らぎ、倒幕の機運。同時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代) [29]が、突如現れ、地に潜っていた「勘解由小路党」と、幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。この天皇は、密教の申し子だったのである。
・桓武平氏の傍流である北条執権家から「主導権を取り戻そう」と言う点では、源氏傍流の足利家も新田家も同じ。唯、足利尊氏には、北条執権家に取って代わり「新将軍家を興そう」と言う野心が有った。
後醍醐天皇 [29]は自ら直接政治に関与する「建武の親政」を始めたが、後醍醐帝 [29]は、足利尊氏の下に続々と有力武将が集結するのを目の当たりにし、帝の読み違いを悟る。
・彼らは鎌倉幕府の倒幕にこそ力を貸したが、武士の利権までも放棄をする気はなかった。事に乗じて、現状より自分の地位が向上する事が狙いだった。そんな損得ずくの彼らに、帝の威光などと言う「建前」が通用する訳がない。

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北条政子と後醍醐天皇
◆足利氏討伐と血統の論理

後醍醐天皇 [29]に忠誠を誓っていた新田義貞 [33]北畠顕家 [34]が、天皇の命により足利尊氏討伐に立ち上がる。この時代、彼らの行動を突き動かしていたのは、使命感(=厳密に言うと、征服者氏族の使命感)で、今の感覚ではとても理解はし難い。「皇統に自分の氏族がどう絡むか」と言う事=言わば血の論理で、彼らは動いていた。

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足利尊氏
◆南北朝並立
~南朝の後醍醐天皇・北畠氏・新田氏・楠木氏と北朝の光明天皇と足利氏と坂東武士~

・足利氏は、後醍醐天皇を比叡山へ追いやったが、奥州から上洛した村上源氏流 [35]・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が足利軍を迎え撃ち、戦況は北畠軍優勢に推移する中、体制を整え直した新田義貞軍や楠木正成(くすのきまさしげ) [36]軍も合流して足利軍は防戦一方となり、撤退を余儀なくされる。鎌倉へは戻れず、足利尊氏はやむなく都を放棄して西国方面へ落ち延び、一時九州まで追いやられる。
・北畠顕家(きたばたけあきいえ) に敗れ、西国方面に敗走した足利尊氏が、その後、九州、中国地方の武士の協力を得、勢力を盛り返して、持明院統 [37]光巌上皇(持明院統・初代北朝天皇) [38]院宣(いんぜん) [39]を掲げて、京に攻め上る。
・関東(坂東・ばんどう)武士も呼応して、後醍醐天皇側は、挟み撃ち状態に陥った。足利―持明院統―真言宗右派の利害が一致、連合が成立。
・後醍醐天皇(南朝)は、足利尊氏の接収した三種の神器は偽者と宣言、朝廷の正統性を表す「三種の神器」を携えて、残兵とともに吉野山に逃れるが、足利尊氏は豊仁(ゆたひと)親王を光明天皇(北朝第二代) [40]とした為に、南北両朝 [41]が並立。
・鎌倉幕府も足利尊氏も再三に渡り楠木のゲリラ戦法にあった。それは、紀伊半島全域が真言、天台、両密教の霊場で、修験(勘解由小路党)の大拠点だったからである。後醍醐天皇が亡命し、吉野朝(南朝)をうち立て、四十五年間も吉野朝が存続したのも、修験(勘解由小路党)の大拠点だったからに他なら無い。
・足利方は、光巌上皇―光明天皇(持明院統)を立てて室町幕府 [42]を成立させるが、吉野に逃れた後醍醐天皇方はこれを認めず、南北二つの朝廷が並立して、四十五年に及ぶ武力対立が続いた。この戦い、後醍醐帝が皇子を各地に派遣した為、九州や東北の地でも、土地の有力者がそれぞれに組して戦った。

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楠木正成t北畠顕家と新田義貞
◆皇室の力の喪失と氏族の相争う時代へ
~南北両朝並立が、実は皇室が全ての力を失う重要なターニングポイント~

・それまでは勘解由小路党を始め、曲がりなりにも「影人達」を確保して、帝なりに、朝廷なりに力を発揮していた。所が、その多くが後醍醐帝(南朝)方だった為に、北朝・足利幕府成立後に敗退を重ねながら四散して行き、北朝は武力的には丸裸に近くなってしまった。矛盾をかかえながらも、朝廷が抱えていた「諜報工作機関」の子孫達との直接的な繋がりが、完全に切れてしまったのである。
・それでもこの国は皇統と影人の国で、室町幕府に於いても歴史にこそ現れない帝及び公家衆と幕府との間には暗闘が在った事は想像に難くない。その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。
・南北朝並立時代の騒乱のなかで、有力部将が力を着けたり失ったりしながら、入れ替わって行き、後の守護大名 [43]の成立に辿り着いて行く。
やがて守護大名 [43]は、勝手に領地争いを始め、幕府の統制は利かなくなる。
しかしながら、この入れ替えの学習が、その後の「下克上」に形を変え、戦国大名 [44]の割拠する時代を作り出してしまったのである。この戦国時代の幕開けを告げるのが「応仁の乱」 [45]であった。

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山伏・伊賀甲賀忍者・修験者
※以後、ご存知の通り、安土桃山戦国時代を経て、江戸徳川家の安定期へと続くが、鎌倉幕府(北条氏)も、室町幕府(足利家)も、徳川幕府(徳川家)も、建前では天皇家を仰ぎながら、強力な支配権の世襲制を確立していった。他国から見たら、その権威は「日本の王」そのもの。桃山期の豊臣太閤家も、天皇家を仰ぎながら実効支配していた点では、「日本の歴史は二枚舌建前社会」は変わりはないとのこと。
◆南北朝と明治維新の長州、薩摩
~南朝の良光親王を保護した大内氏・毛利氏・佐藤氏~

・多々良姓は、周防、長門地方を平安時代の昔から長く治め、妙見信仰の最大の庇護者だった大内氏 [46]の古い姓である。
・下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。「降星伝説」この地では、妙見信仰 [47]は長く保護され、人々に根付いていた。
・南北朝時代には、大内弘世 [48]は南朝側として周防、長門の豪族を服属させ、「建武親政」に協力すると、正平18年には一転、北朝側に寝返って周防、長門両国守護に任じられた。この寝返り、大内氏の存続を守り、南朝の皇子「良光(ながみつ)親王」を密かに匿い、守る為の算段だった。
・庇護した皇子の南朝方が天皇に返咲けば、関白太政大臣も夢ではない。大内氏は戦国時代に配下の陶(すえ)氏 [49]に下克上に会い、その陶氏は毛利氏 [50]に取って代わられたが、大内氏の血脈が、「良光親王」(※満良親王とも言われる) [51]の血統を守り、神主などの武門以外で多々良姓を名乗り、永らえていたとしても、不思議は無い。この密かな陰謀は、毛利家にも引き継がれ、良光親王を守って下向した藤原氏の枝、佐藤氏を名乗る世襲代官が、この地を代々ひっそりと守って、明治維新を迎える。
・源氏を武門の棟梁の血筋と決定付けた八幡太郎義家は、源義家と言い、頼朝の五代前の源氏の棟梁である。鎌倉幕府の御家人の苗字と薩摩の国人の苗字と共通するものが顕著に多い。(これは謎が多く決定打はないが、薩摩の国人と源家の間にはかなりの接点が存在する。)

※明治維新時に、薩長同盟が作られたのは、犬猿の仲であった薩摩・長州が、南朝復活(皇統の再構築)に志しを一にしたためだとも言われます。
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大内弘世像・毛利元就・西郷隆盛像
◆武門の伸張と政権の二重構造
~「日本の歴史は二枚舌建前社会の歴史」~

・「神の威光で統治する」と言う呪術的発想から、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用されて成立した古代大和朝廷は、実際、武力を独自でもてなかった。必要がある時は、「有力氏族(臣王家)が天皇家の命に従う」と言う建前である。
・しかし大王の本音では直属の武力機関を持ちたかったので、皇統に繋がる賀茂・葛城氏を筆頭にした秘密組織「陰陽修験」を組織させて大王(おおきみ・後の帝・天皇)の意向を具現化した。
・所が、代替わりを重ねて桓武平氏や清和源氏の血流れが枝分かれし、天皇家と血統的に遠くなると、その武力を背景に事実上の支配者に収まって行く。言うなれば建前では天皇家を仰ぎながら、その実、天皇家は、武力に拠る実質覇者の権威着けに利用する為の存在価値だった。
・徳川幕府(徳川家)も、室町幕府(足利家)も、建前では天皇家を仰ぎながらその実強力な支配権の世襲制を確立し、外(他国)から見た権威は「日本の王」そのものである。
・桃山期における豊臣太閤家も、天皇家を仰ぎながら実効支配していた点では変わりはない。
・鎌倉幕府に到っては、天皇家ばかりか源将軍家まで建前に置いて北条執権家が、実質世襲支配をして居る三重の建前形式を採って居た。

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雑賀孫市像
【コメント】
大王が【神の威光】による統治が難しくなってくると、藤原氏→平氏→源氏→北条氏→足利氏・新田氏→新田氏・楠木氏・北畠氏→織田氏→明智氏→豊臣氏→徳川氏と次々と朝廷とは別の支配階級(=幕府など)による二重構造が出来上がる。大王の権威を犯すものへ大王からの密使が次々と派遣されていく歴史を経て、南北朝時代14世紀頃まで続く。その影には、修験山伏、勘解由使と密教や妙見信仰などが付きまとい、正史に出てこない裏の勢力が存在する。源氏も平氏も、元は、修験山伏の祖先である葛城、賀茂氏とのこと。葛城・賀茂氏は、甲賀、伊賀の忍者や雑賀となり大王家の諜報機関として勢力を維持してきたと考えられる。武力》神の威光となるにつれ、大王のコントロールを失ってついに南北朝時代に分裂。武力に頼らざるを得なくなって、実質、外圧(黒船襲来)が来る明治維新までは、その威光による統治=尊王攘夷、王政復古の皇統は、なしえなかったようだ。
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神武天皇・綺麗な一文字菊
【仮説】
時代を貫通して捉える冗談氏の視点は非常に面白い。南北朝まで大王の密命を影で支えた葛城・賀茂氏系譜の陰陽道、修験道、山伏、伊賀・甲賀忍者や雑賀、勘解由使、役小角などは、元を辿れば、海洋系・呉系氏族とのこと。賀茂・葛城は、倭人系統で秦氏の系譜であり、中国江蘇省付近(長江下流の南京付近)から、黒潮にのり、伊豆七島の三宅(三宅島)にたどり着き、伊豆半島に伊都国を作ったと記述される。秦氏に見られる技術力や生産力、呪術は、修験道のそれにラップするイメージをもつ。歴史的には、彼らは、大王家よりも勢力を持っていたとされ、大和朝廷の有力豪族の長が大王とされる風習から、その血統は継承されず、変化している。万世一系の天皇の皇統を明記したのが、古事記・日本書記であり、神の威光の支配・統治には馴染まない大豪族であり、その存在を消すことになる。和邇氏と宇佐岐氏の並立王朝で、宇佐岐氏=神武(大王)家=天一族(天孫族)を助けたのが葛城氏とのこと。宇佐岐氏から皇位を簒奪か継承し、葛城氏そのものが、大王家となったか、大王家と一定の距離を置く、修験道・山伏と呼ばれる地下軍事組織で武力を使い暗躍し、葛城、賀茂氏という名前が消えたのかもしれないと考察あり。
また、伊豆には金山が多く、故郷の地の金鉱脈を非公開とし、それの精錬に必要かつ防腐剤や薬にも使用された当時は貴重だった銀鉱脈を紀伊半島吉野に求め、それを押えるために、葛城の土地は、紀伊半島の吉野におりたったと古事記・記紀に記載したらしいが。そのために遷都し、伊豆と相似形の吉野に都をつくったらしい。金銀鉄を彼らは自由に使う技術をもっていることは、秦氏とも通じる。
この葛城、賀茂氏系統の人々が、南北朝前まで、皇位を継続させるために、本性を隠し、皇統の諜報機関として暗躍する基礎となっている。いわば、観念統合の皇統と武力統合の影人の二重構造が既に、古代に出来上がっていたようだ。古代でも情報は、権力継承のために必要不可欠であり、秘密警察組織や諜報機関は必要だったのだろう。それは、人類が、私有し掠奪し始めた結果の支配の様式のように思う。表向きは、法律や宗教、神の威光という倒錯観念を大王にて展開し上半身を支配し、一方では、生々しい私欲の貪り合いを大王の影の組織によって、武力や生産力、資金力や性規範と自集団を統合する宗教観念を使い下半身を支配する構造は、現在と変わらない。これをもって支配の二重構造といってもいいかも知れない。
歴史の教科書にない、非常に面白い仮説が一杯なので、未来狂冗談氏の「皇統と鵺の影人」 [52]一読してみて下さい。
【by 2310】

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