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国家と中央の寺社・貴族による取引関係=『初期荘園』

Posted By staff On 2009年9月13日 @ 12:05 PM In 弥生ー律令時代の国造り | 4 Comments

こんにちは、みっちーです☆
日本の律令制を考えていく上で、土地制度は欠かすことの出来ない視点です。(奈良・平安時代の律令制については、↓年表がまとまっていてオススメです。)
[1]
引用:浦崎太郎のウェブブログ [2]
この中でも特に人身課税から土地課税への移行は、
徴税システムの大きな転換点となっていると考えられます。
今回はこの人身課税から土地課税への導入の契機ともなった
『荘園』について追求していきたいと思います。

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荘園は、変遷から大きく二段階に分けられます。
『初期荘園は墾田地系荘園』といい、『後期荘園は寄進系荘園』といいます。
人身課税から土地課税への移行は、
この荘園の変遷(初期→後期への移行)と密接に関係しています。
これにはどういった関係性があるのでしょうか?
◆初期荘園以前の社会状況
まずは初期荘園の成立について、
歴史的背景をおさえながら理解していきたいと思います。
8世紀初頭、日本は大きな外圧に晒されていました。
白村江の戦いで唐に敗れた日本は、唐及び隣国の新羅からの侵略を警戒。
中央集権制の強い国家を目指し、大宝律令(701年)を制定し律令制度(公地公民)を推し進めます。
戸毎に人民を把握する戸籍制度(籍帳支配)を取り入れ、またそれに基づいて班田収受(法)を制定します。つまり人民の把握=兵役の強化と、徴税の徹底を図っていきました。
しかし農民に課される租・調・庸・雑徭・出挙・兵役などの負担はかなり大きなもので、凶作になったり、農民が病気になったりすると、たちまち生活が破綻してしまいます。
生活に行き詰った農民たちは、口分田を捨て他国に浮浪したりして、逃亡して地方豪族などのもとに身をよせていきます。農民の浮浪や逃亡の増加は、国家財政を直撃し、さらに口分田の荒廃を引きおこしていきました。
◆土地制度と初期荘園の成立過程
720年に藤原不比等が亡くなると、高市皇子(天武の王子)の息子である長屋王が左大臣となり、藤原氏に替わって政治を動かすようになります。長屋王は人口増加により不足する口分田の獲得をスローガンに掲げ、「百万町歩の開墾計画」→「三世一身の法」を発布していきます。

百万町歩の開墾計画:農民に食料や道具を貸し与えて、100万町歩の田畑を新たに開墾させる計画。(田畑倍増計画)
三世一身の法:新しく溝や池を作って開墾を行った場合は、本人・子・孫の三代に限り、開墾した土地の私有を認める。

三世一身の法は農民の意欲を喚起するための開墾奨励法とされていますが、結果としてはさらなる逃亡農民の増加→口分田の荒廃を招いてしまいます。この原因はこの後、743年に制定された「墾田永年私財法」から読み解くことが出来ます。

墾田永年私財法:開墾した土地は、定めれた面積をかぎって永久に私有することを認めた。定めれた面積とは一品と一位は500町以下、初位から庶人は10町以下、郡司は30から10町。そして開墾には国司の許可が必要であり、許可を得てから3年以内に開墾を完了しなければならないなど。

新たな開墾は水路工事等を伴うため農民レベルでは到底出来ず、力のある大貴族や寺社が行うことになります。三世一身の法にしろ、墾田永年私財法にせよ、旨みは貴族階級(寺社等)だけが得られるものになっているのです。また墾田永年私財法の同年には大仏建立の詔が出されており、国家も貴族からの協力(資金援助)を受けていました。
この墾田永年私財法が制定されると中央の寺社・貴族は、律令国家の積極的な援助のもとに大規模な開墾を展開してきます。墾田の要所には開発と経営のため、「荘」または「荘所」という家屋が設置されました。この荘と墾田の結合体を「荘田」または「荘園」と呼ぶようになります。これが初期荘園の始まりとされています。
初期荘園には、耕作労働力を周辺の班田農民に対する賃租で賄う自墾地系荘園と、すでに熟田化した墾田を買得・相博・譲与・寄進などで集積した既墾地系荘園があります。初期荘園の大きな特徴は、中央の寺社・貴族による直接経営と国に税(=租)を納めることが義務付けられていたことにあります。
つまり、初期荘園を生み出した土地制度(三世一身の法・墾田永年私財法)とは、決して地方(農民)のためではなく、国家と中央の寺社・貴族が結託した取引制度だったわけです。
そのため地方(農民)の活力は上がるわけもなく、逃亡農民の増加は止まらず、口分田はさらに荒廃し律令制は崩壊していきます。そしてこの逃亡農民の増加により、戸籍制度は事実上崩壊します。そのため人身課税は不可能となり、把握可能な土地に税をかけていくという人身課税→土地課税へと止むに止まれず移行していったのです。
しかしこの初期荘園も自墾地系荘園は衰退し、
その一方で既墾地系荘園は発展し後期荘園へと繋がっていきます。
次回は、
この自墾地系荘園の衰退と、既墾地系荘園の発展の違いは何なのか?
そして初期荘園と後期荘園の決定的な違いとは?をお送りします。

お楽しみに~☆
最後まで読んで頂いてありがとうございました。


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