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日本史の裏で暗躍する修験道の歴史

ヨーロッパの歴史が「教科書的な」表の話だけでは本質が見えてこないことと同様に、日本史もその重要な局面では、必ずと言っていいほどウラの勢力が登場します。世界史同様、日本史でも様々な影の勢力が登場しますが、今回は「修験道」に絞って、日本史との関わりを見ていきます。
【参考エントリー】
日本古来の宗教・修験道の歴史 [1]
修験道とは、どのような宗教なのか? [2]


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飛鳥からみて”葛城”はあの世とこの世の境界であり、”葛城”の向こうは”あの世”とされていた。吉野金峯山は、古くから水神が祀られていたことからも分かるように、聖なる水を生み出す水源地であった。また、吉野川は上流に至ると丹生川と呼ばれる。丹生は水銀の産出地であることを示すが、吉野は水銀産出の地としても神聖視されていた。
役小角(役行者)はこの葛城~吉野金峯山などで修行を重ね、修験道の開祖となる。天武天皇は役小角の修験道ネットワークを利用し、壬申の乱を起こし、天智天皇系から皇位を簒奪した。この天皇家内部の対立のなかにあって、藤原氏が力を付けていく。藤原氏支配が強まる時代にあって、藤原支配から脱却を狙ったのが東大寺大仏を建立した聖武天皇だった。このとき、修験道と密接な関わりをもっていた行基が、聖武天皇により引き立てられ、東大寺大仏建立の立役者となる。藤原支配(中臣神道)への対抗としての仏教を拡大することを目論んだ聖武天皇の裏には、修験の働きがあった。
その後、血統の正当性のみを根拠に天皇となった光仁天皇(桓武天皇の父)によって山岳修験道者が要職に着くようになり、桓武天皇によって新たな仏教の輸入が実行に移される。修験道は、この時に持ち込まれた平安時代初期に持ち込まれた密教と融合し、大きく2つの潮流(台密・東密)に分かれることになる。
平安時代初期に唐から取り入れられた仏教は、最澄と空海によってもたらされた。
天台宗(最澄)は密教の経典を真言宗(空海)から借り受け、密教を取り入れる。その後、密教への傾斜を強める寺門派(園城寺)が分離。山門派(延暦寺)と対立する。山門派(延暦寺)は朝廷との結びつきを強め、鎌倉時代に多様な仏教の宗派を生み出していった。
真言宗(空海)は、高野山の金剛峯寺と京都の教王護国寺(東寺)を二大拠点として発展していく。平安時代に入ると、皇族、貴族などの金峯山参詣が相次いだ。平安時代中期には、山深い醍醐山頂上一帯が多くの修験者の霊場として発展し、醍醐寺が建立され、醍醐天皇の庇護の下発展して行く。
平安時代を通じて貴族から下級官僚にまで広がっていった修験道は、各地に信者を拡大していく。元々、”修験”とは個人による修行をその根本とするが、信者拡大に従って次第に集団化・教団化していくことになる。
こうして教団化していった修験道は、平安時代末期~鎌倉時代には、本山派と当山派の二大派閥に統制されることになる。
両派とも最重要視していた山は金峯山(きんぷせん)だったが、熊野を重要視していた本山派は熊野から入り、逆に当山派は吉野側から金峯山へと巡礼した。この醍醐寺-当山派が、後醍醐天皇を支え南朝を樹立する。
壬申の乱における天智天皇と天武天皇の対立、奈良時代末期における聖武天皇と藤原氏との対立、室町時代における南朝と北朝の対立・・・、日本の権力闘争の背後には常に『修験道』が見え隠れしており、彼らの行動が勝敗を決するほどの力を持っていた。
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(ないとう)

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