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井上清氏の縄文史観~縄文時代って何?

こんにちわ。管理人のタノです。
最近手にした本に井上清氏の「日本の歴史」という本があります。
日本の歴史を通史で書かれている教科書のような本ですが、今日はこの本の中から縄文時代を書き表した部分を紹介したいと思います。
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井上清氏 [1]は1913年生まれ京大の教授でマルクス主義史観をもった歴史学者です。1963年に岩波新書から出たこの書籍は2009年に72刷を発行され歴史書としては驚くほど長いミリオンセラーとして書店に現在でも並んでいます。
45年前に書かれた史観は現在読んでもほとんど違和感なく入ってきました。また井上氏の小気味良い明快な文章は装飾の多い現代の歴史文章と対比すると非常に新鮮に感じるものがあります。
その後の考古学的発見によって修正を要する部分はありますが、縄文時代と日本人を捉える骨格はこの書籍に明快に書かれていると思います。この本の書き出しの部分からして縄文時代という命名は井上清氏のこの書籍から始まったのではないかと思われます。
縄文ブログでありながら久しく縄文時代を扱っていなかったので、しばらくは縄文時代に目を向けていこうと思います。
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日本列島の地においても、地球の他地方と同じように沖積世の初期に、新石器と土器の製作・使用がはじまった。それと同時に新石器文化には日本的な特徴が表れている。このころの日本の地にはすでに大陸とつながりはきれて四方を海にかこまれた列島になっていた。この海を渡って大陸と往来することは、当時の列島とその周辺の社会の生産力では、まったく不可能でないまでも、きわめて困難であった。
かくて日本列島の社会は、1万年ほども周辺の社会からほとんど孤立した形で独自の道を歩まねばならなかった。そして8千年ほど前に四国と九州からきれた形となり、その後も太平洋がわの海岸線が後退し、5千~6千年前から日本列島は地形も気候も動植物相も、現在と基本的には同じになっていた。

いままでに知られている、列島社会にあらわれた新石器時代の最初の文化はその土器に縄目あるいはそれに似た文様があることから、縄文式土器の文化とよばれる。本書ではこれを簡単に縄文文化とよび、その時代を縄文時代ということにする。
縄文文化は、紀元前3~2世紀ごろまでの数千年間もつづき、その遺跡・遺物は、北海道から沖縄本島にいたる、日本の各地にひろがっている。この長い年月を通じて、人々は漁撈採取経済を抜け出す事ができず、金属の発明もなかったが、その間にも、人々のたゆみない社会的労働により一歩、一歩生産力と文化が向上していった。


縄文時代は土器の形や文様の変化と、その出土状況を手がかりとして、早期、前期、中期、後期、および晩期の5期に大きく分けられる。
早期の人たちは弓矢を持っていたから、旧石器時代よりも一段と発達した狩猟をおこなっていたことがわかる。前期のおわりには、丸木船に乗り、沖合いに出て魚をとることも知っていた。その住居は、地面を6~7平方メートルの方形あるいは円形に掘り下げ、その中に柱をたて、四方から草木の屋根をふいた竪穴である。早期の住居集団は、規模も小さく、同一の場所におちついた期間もみじかかったが、前期に入ると、竪穴の住居が海に近い台地にたくさんならんで小集団をつくっており、ながく使った炉のあとがみられるなど、一所に居住する期間がながくなったことが察せされる。

中期には集落は、海岸からかなり奥地に入ったところに発達している。たとえば長野県の八ヶ岳ふもとにも、多数の中期の住居跡がある。このころには、相当広い地域にわたる物資の交換が行われていた。その有名な例証として、長野県和田峠の近くに算出する黒曜石を材料とした石鏃の分布がある。この石鏃は、関東、信越地方の各地はもとより、東は福島県、西は愛知県・福島県におよび、海を越えて佐渡島にもひろまっている。
後期から晩期にかけて、人々は台地から平野の近くに進出した。集落の規模はますます大きくなり、住居跡や貝塚から出る土器、石器、骨角器などの労働要具の種類は多様になり、その分量もふえている。このことは労働生産が発達し多様化していたことを示している。それとともに、東日本と西日本で文化の様相に明白な差があらわれはじめる。
もともと縄文文化には土器や形の文様に東日本と西日本相違がはじめからいくらかみとめられるが、それにしても後期までは質的な差はなく、どの地方も同じ方向に進んでいた。
ところが晩期には東日本ではそれまでの方向がひき続き発展し、釣具などの骨角器が非常に精巧になり、土器の装飾は、青森県から出土した亀ヶ岡式土器を典型とするように、極端に複雑になる。これに対して西日本では縄文文化の遺跡からの出土品は変化にとぼしく、土器は以前より簡素になる。その一方では土堀に使ったと思われる、大型の打製石斧など、新しい性質の強力な労働用具があらわれる。これから察すると、西日本では、人々は新しい生産方法、農業への道を探っていたらしい。

縄文文化はここまで進んだけど、ついに農耕と牧畜をはじめるにはいたらなかった。縄文時代の人々が養った唯一の家畜は犬であった。犬は世界のどこでも、人類の最初の友となり助手になった動物である。
縄文時代の中期以降の遺跡のあるものからは、穀物をすりつぶすことの可能な石皿や前期の大型打製石器などが出ることからヒエあるいはサトイモなどを栽培する、原始的農業が始まっていた、と推定する説もあるが、まだまだ決め手がない。かりにそのような農業がはじまっていたとしても、それはまだ、生産の主要な方法ではなく人々は依然として決定的に狩猟採取経済に依存していた。

このような生産力の段階では、人々は働けるものはみな働いて、ようやく社会を維持してゆくのが精一杯であった。そこにはみずからは労働をしないで他人の労働を搾取する富者と、彼に搾取される貧者との別が生ずる条件はなかった。
縄文時代のどの期の住居址を見てもみな一様にそまつなもので、その間に大小優劣の差がない。人々は死ぬると共同の墓地に葬られた。他のものよりりっぱな個人の墓とか、他の使者とはちがう特別の副葬品をそえたものもない。そしてこの社会では狩でも、漁でも、住居をつくることでも、主要な生産はすべて、個々人の単独では不可能なので、社会の全員の共同労働でおこなわれていたであろう。
生産労働を共同で行い、労働要具を共有している、いいかえれば原始共産制のこの集団はおそらく母方の血縁でむすばれた人々の、母系制氏族共同体であったであろう。そのことを直接に証明するものはないが、当時の生産力と集団の規模および後世の母系制の事実からさかのぼって、そのように推定される。
また中期、後期の縄文土器には人間をあらわす土偶があるが、その多くは女性をかたどっている。土偶はたぶん、万物に精霊があり、それが人間の運命を左右すると信じる精霊信仰(アミニズム)と関係のあるもので、それが女性をかたどるのは、女性は子を産むもの、すなわち生命の本源として、そこに霊妙な力を感じていたとも解されるし、あるいは母祖崇拝を意味するかもしれない。

縄文時代は、つぎの2点でまさに日本歴史のはじまりといえる。(続きは次回の投稿をお待ちください)

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