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“儒教”や“道教”がどのようにして生まれたのか?

こんばんは。
只今、中国について勉強をはじめたばかりのmrranです。
中国・・・勉強を始めるといっても何から始めたらいいのか???
ということで“儒教”や“道教”がどのようにして生まれたのか?とここから始めたいと思います。
そんなこんなでネットサーフィンの末、非常に説得力のあるサイトを見つけましたので、今日はそれを紹介したいと思います。いきなりミクロに入る前にマクロ的視点で捉えているので、それこそ取っかかりには非常に良いと思います。
このサイトです。是非みなさんも本サイトをご覧あれ!
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チャイナ文明とはなにか 縄文への道 [3]

移動の西洋 定着の東洋
ヒトは与えられた風土という生活環境によって、性格・行動原理そして思考や心理が形成されていくものだ。また気候が寒冷化あるいは温暖化に振れることによって、生活環境が変質し集団は収縮しあるいは膨張に転じる。歴史上幾度も起こった民族の大移動は、概して温暖化によって人口の増加を見た後寒冷化に振れることで生じた食料の危機が原因で惹き起こされてきた。
言うまでもなく、ユーラシアは地球上最大の大陸である。私たちの祖先は、猿人の時代まではアフリカにとどまるものの、原人そして旧人の一部は、アフリカを離れてこのユーラシアの地に移り棲んできた。ミトコンドリア・イヴの子孫といわれる私たちホモ・サピエンスの祖先たちもまた、おそらく同じ理由で人類発生の地といわれるアフリカ大陸から、追われたかあるいはみずから見限ってこのユーラシアの地にやってきたはずだ。その後ヒトは別れ別れとなって、幾多の苦難を乗り越えながらもいろんな風土に適応してきた。黒人、白人種あるいは黄色人であっても本来唯一の種であるため、相互の婚姻には支障がなく、それぞれが定住の地を求めて移動を続け、あるいは定着を果たしてきた。
だい3章 [4]で述べたごとく、その後農業革命によってヒトは幾つかの文明圏を形成するのだが、ユーラシアの西側では、気候の寒冷・小雨それに痩せた土壌なども作用して、遊牧文明がその中核となってたえず移動を繰り返してきた。一方ユーラシアの東側では、熱帯季節風の影響によってかなりの高緯度でも夏は暑く大量の降雨があり、農耕文化が中心となって早くから定着を果たしてきた。
ユーラシアの東側、すなわちアジアの中央に位置するチャイナ文明は、北方の騎馬遊牧民族による度重なる侵略と王権の簒奪はあったものの、結局黄河流域と言う農耕地帯に収斂し定着して、この地から一歩たりともよその地に移ることはなかった。したがって、つねに移動を繰り返しながら洗練されていった西洋文明とは違って、チャイナ文明は、決して移動することなく洗練され、そしていつしか陳腐化していったことになる。
梅棹忠夫が指摘するように、ユーラシアの西側では興きては滅びながら、第二地域から第一地域へと文明が遷移し、ついに移動を重ねて新大陸にまで到達したのだが、ユーラシアの東側ではそれとまったく違い、西洋に見られるような文明の遷移など起きなかったのである。
たしかにその昔、チャイナの文明の一部が日本にやってきて、この地にあった古来よりの文明と混淆して、全く異質な文明を形成していったのだが、それは梅棹が謂うように、移動してきたのではなく、日本はある種特殊なフィルターを通して、必要な文化や文明だけが濾過され、それが日本古来の文化・文明と融合して、特有の日本ハイブリッド文化・文明を生んだものである。
しかも梅棹の唱える第一地域の日本にしろ、第二地域のチャイナあるいはインドにしろ、つねにその地で定着・定住を行ってきたというのが正しい見方である。実は梅棹がチャイナを第二地域と決め付けることになった理由は、決して遷移という現象ではなかったのである。
あとで触れるが、最近長江(揚子江)流域において、約7000年前に遡る稲作遺跡が発見されたのだが、これを最古のチャイナ文明として認知するのではなく、黄河文明とあわせて中国文明と呼ぶようになっている。すなわちチャイナの地において、最初にチャイナ文明確立の役割を担ったのは森に発した長江流域のコメ農耕の民であって、やや遅れて黄河流域のアワ・コムギ文明が始まったと見るのが妥当であろう。
ところがその後の歴史を見ても、この地が中央王朝の避難場所となることはあれ、中央に覇を唱えることはほとんどなかったのである。それに対して北狄とよばれたモンゴルや現東北(旧満洲)地方の遊牧民族は、幾度もチャイナの心臓部に侵入して政権を樹立しながら、その都度どっぷりその中華思想に取り込まれて、いつしか牙を失ってしまうという歴史を繰り返すことになる。
結果としてチャイナという風土環境は、北部(黄河流域)には厳しい自己規制と倫理・規範を追及し、君子としての道を説く孔孟思想(儒教)を生み、南部(長江流域)には、そのアンティテーゼとも受け取られる、現実的功利・処世術そして神秘的な神仙崇拝に逃避する老荘思想(道教)を生み定着させてきた。この二つの宗教あるいは社会・生活規範的思想は、衝突し交替しあるいは融合しながら、インドよりこの地に渡来した仏教をも混淆し、次第に複雑なチャイナの思惟的根幹として形成されていった。
すなわちアジアにおいては、一見すれば梅棹忠夫の謂うようにユーラシアの西の文明遷移の姿と相似に映るものの、実際にはまったく相異なった道を辿ってきたのである。

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