こんにちは、saahです。
現代の金融と商人の起源については、「金融と商人の起源:「バビロニア」、そして「フェニキア商人」へ [1]」でも紹介されています。
さらにその後、フェニキアの一植民市であったカルタゴからローマ、ベネチアの商人へとその系譜が移っていきます。(「ユダヤ・フェニキア勢のカルタゴ脱出→ローマ帝国解体→ヴェネチア [2]」)
今日は、世界史上まれに見る商才を発揮し、古代地中海において一大商業都市を発展させ、「商業を発明した」と言われるフェニキア人とは一体どのような人々だったのかを追ってみました。
いつものように応援よろしくお願いします。 [3] [4]
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(現在のテュルス(ユーラシア旅行社 [6])よりお借りしました)
【歴史の表舞台に登場するまで】
■フェニキア人とはそもそも人種の呼び名ではない
フェニキア人とは、紀元前1200年頃から、東地中海沿岸地域に住み、精力的に交易活動を行っていたカナン人の事を呼ぶ呼び名のようです。ただし人種的には一つではなく、共通するところとしては彼らは共通の言語を話していたことから、まとめてそう呼ばれていたようです。
■セム語族のアラビア半島からの拡散→カナンの地へ
フェニキア人の話していた言語から、彼らはセム語族に属するとみられています。
セム語族の出身はアラビア半島と考えられるのが有力なようで、そこから考えるともとは砂漠の民であり、半遊牧半農耕的な生活を営んでいた民と考えられます。
その後彼らは食糧難からか、各地に拡散→カナンの地に到着し、原カナン人他、各人種との混血を繰り返して行きます。(全て同じセム系)
こうして、東地中海沿岸一体に住みついた人々をフェニキア人と呼ぶようになったようです。
その後「海の民」と呼ばれるギリシャ系の海洋民族とも融合し、造船、航海術を身に付ける事になります。
■海の民による沿岸侵略→大国の権力の空白期に交易の場を広げる
海の民とは、紀元前13世紀頃、東地中海一帯を荒らし回っていた集団で、民族的にはギリシャ系と考えられています。
彼らはエジプトにまで攻め込んで、そこでラムセス3世の軍勢に敗れて拡大に歯止めがかかったが、彼らにより、同地域一帯は多大な影響を受け、当時の大国、ヒッタイトやエジプトの勢力衰弱=権力空白地帯を生み出し、それに乗じてフェニキア人が交易の活躍の場をつかんだと考えられます。
(「カルタゴのページにようこそ」(武田寛礼氏論文)より要約)
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(「地球の歴史 [8]」より)
【フェニキアの国家形態】
■フェニキアの各都市は、独立的で、単一国家としては統合されていない
フェニキア人には「国」というものはなかったようで、テュロス、シドン、ビプロスなど、それぞれがきっぱり独立したライバル都市であり、共通の敵に対抗するとき以外は協力して事に当たるというような事はほとんどなかったようです。
つまりは、フェニキア人とは領土によって定義される国民ではなく、商人の集合体であったようです。
→このことは、すでに本源的な共同体を解体されていたことの裏返しか?
それが後述するフェニキア人の”資質”を作り上げているとも考えられないでしょうか。
■自らが統一国家として支配するより、交易による反映を選択した
大国(エジプト、シリアなど)を相手に、交易で利益を掠め取る手段を選択
∴交易の対象は権力者(王、領主)
↓
自由貿易(取り扱い品の拡大)による利益の拡大
さらには地中海沿岸に植民市を広げ、交易の対象範囲を広げる。
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【フェニキア人に対する評価】
■フェニキア人の評価→「策略家」「陰謀家」?
北アフリカ沿岸の植民市カルタゴの建国にまつわる、次のような逸話があります。
フェニキアの都市テュロスにはその頃エリッサ(注)という王女がいた。
王女にはピグマリオンという弟とアケルバスという叔父がいた。叔父は裕福で、王女は彼を結婚相手に選んだ。
弟は王位と叔父の財産を狙って叔父を殺した。
王女は弟に殺されると思い、部下と財産を船に積み、地中海へ乗り出した。キプロスに立ち寄りそこの神殿娼婦を乗せ、数日の航海の後、現在のカルタゴの地へ着いた。
エリッサは土地を得ようと、現地のリビア人にこう言った。
「この牛皮と牛皮で囲えるだけの土地を交換しましょう」
相手は喜んで申し出を受けた。
エリッサは牛皮を細く細く刻んで広大な土地を「囲んだ」という。
いかにも「策略家」「陰謀家」と評されるフェニキア人を言い表した逸話ですね。しかしその一方で、彼らはすぐれた航海者、技術者、交易人としても名を馳せています。
(注)エリッサとはセム語で「女神」あるいは「愛すべき」という意味との説があるようです。
また他の記録では王女の名は「ディドー」と語られているが、これは現地リビア人のつけた名で、「漂泊の人」「旅人」という意味だそうである。
【フェニキア人の商才】
■領主からの依頼公益→自由な交易へ
古代地中海の交易は領主なり王による委託を受けて、非常に高価なぜいたく品を運びその手数料を得ていた。
(航海自体が非常に危険を伴うため、王の保証を受けて行っていた)
↓
フェニキア人の交易は、ありとあらゆる品物を扱い、交易には直接、間接に全人口がかかわっていた。
売れるとあらば何でも作り出す技術と、卓越した航海技術によって、どこへでも出かけてゆく自由貿易により、莫大な利益獲得にまい進していった。
「フェニキア人は商業を発明した」といわれる所以でしょう。
こうして高度な航海術とあくなき利権の追求を原動力に、彼らの行動範囲は地中海沿岸にとどまらず、アフリカ沿岸一帯や、ジブラルタル海峡を越えてイギリス南部にまで錫を確保しに行ったとされています。
このような、すべての生活は交易に注がれ、交易のためには手段を選ばないといった彼らの考え、行動は、一方では政治的には非常に目先的、利己的で、目先の利害にとらわれ大局を見失うとも評されています。
これがのちにカルタゴに引き継がれ、そしてあろうことか地中海において覇権を争うことになったローマとの度重なる戦争において、相手をあと一歩まで追い詰めながらついに勝つことができず、自らを滅ぼすことになった大きな原因ではないかと考えられます。
この辺は今後の「カルタゴ~ローマ;地中海の覇権の変遷」について継続して調べてみたいと思います。