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キリスト教の拡大~ミラノ勅令でローマ帝国の公認宗教へ

こんにちわちわわです。
ぴんぐーさんに引き続き、キリスト教が拡大しローマ帝国の公認宗教になるまでを追っていきます。
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パウロの功績の一つは、これまでギリシャ系ユダヤ人のキリスト教への改心がメインだったのに対して、対象を他の宗教へも拡大していった事です。
ユダヤ人キリスト教徒が改宗した異邦人にも割礼の儀式を施すべきだとした割礼論争にけりをつけ、キリスト教徒にはユダヤの律法に従う必要がないと説き、他の宗教へ広めてゆく素地を築きました。
3回にも渡る布教の旅から想像すると、結構なお金持ちで、一般庶民に限らず、特権階級にまで、布教の対象を拡げていたと思われます。ローマ帝国にとらえられ、ローマで殉教においこまれたのも、これらの布教活動をローマ帝国が脅威に感じたからです。
バチカンのサンピエトロ寺院は、もともと、こうしたキリスト教徒を処刑するところでした。
現在ローマ教皇の地位は、キリストの一番弟子ペトロとパウロが殉教したローマの教会が他のキリスト教会より優位に立つことの根拠となっています。
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キリスト教がローマ帝国内に広まってくると、ローマ人の中にはキリスト教に反発したり、積極的に迫害する者も出てきます。
キリスト教徒がパンと葡萄酒をキリストの「肉と血」として儀式を行うことが食人儀礼と噂され、「兄弟姉妹よ、愛し合いましょう」という挨拶が近親相姦の勧めととられたり、飢饉や、地震の天災が起こると、キリスト教徒の「悪行」のせいだとして、民衆による迫害やリンチが起こることもありました。
本格的な迫害を行ってきたのは皇帝です。
暴君といわれたネロ皇帝(54~66年)によりペトロとパウロは殉教し、ドミティアス皇帝(81~96年)は、皇帝礼拝を拒否(キリスト教は一神教だからキリストの神意外は礼拝できない。)するキリスト教徒を逮捕、処刑するなど、激しい迫害を行いました。「ヨハネ黙示録」等、終末思想は、こうした迫害を背景に書かれたと言われています。
しかし、こうした迫害に屈する事なく、信者達は人けのない地下墓地(カタコンペ)で、礼拝や布教活動を続けました。あの世に未来が開けるこの欺瞞観念は、殉教そのものを苦にしなかったのかもしれません。
最大の迫害を行ったのはディオクレティアヌス皇帝(284~305年)で、皇帝礼拝を強要し、キリスト教の根絶をはかろうとします。彼は巨大になりすぎた帝国を効率的に治めるために領土を4つに分け、4分統治の政策をとりますが、これがかえって大混乱をまねき、内戦状態に突入してしまいます。
この混乱状態を平定し、帝国の再統一を果たしたのが、コンスタンティヌス皇帝(306~337年)です。彼は、どんなに迫害しても滅ぼすことができないキリスト教を、むしろ分裂しかかったローマ帝国の再統合を強める絆として利用できるのではないかと考えました。
どんなに迫害され続けても、キリスト教はローマ全土に広がってしまっており、しかも普遍的な一神教信仰に成長していたためです。
313年、コンスタンティヌスは「ミラノ勅令」を発布し、キリスト教をローマの宗教として正式に公認しました。
キリスト教の不思議なところは、他の宗教はシュメールの時代から一貫して、国家や集団統合のための倒錯観念として権力者の都合に合わせて進化してきたのに対し、ユダヤ教から分派したキリスト教は、奴隷、貧民、庶民といった下層から広がっていったことです。現在では3人に一人が、そして先進国のほとんどがキリスト教です。
それは、キリスト教が、個人、自由、博愛といった近代思想に直結する欺瞞性に長け、本源充足をくすぐる代償充足の手段として皇帝の圧政下に現実を不可能視する一般庶民の唯一の収束先として受け入れられていったからではないでしょうか?
次は東西に分裂したローマ帝国とキリスト教の歩みに迫ります。

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