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科挙制度に儒教が導入されたのはなぜ?

科挙制度とは中国、隋初から実施された高等官資格試験制度です。
その制度の内容は、豪族(後の貴族)による推薦制ではなく、家柄や財産に関係なく、広く有能な人材を確保し高級官僚に登用するもので、官僚=特権を与えることで、国家への恩義を感じ忠誠を誓うという制度です。

一方、儒教の根本概念は「仁」にあります。
具体的にいえば、親子兄弟の情である孝悌を根本とするものです。

科挙儒教、一見、相反するように思えますが、科挙制度になぜ儒教が導入されたのでしょうか

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【儒教成立とその時代背景】
孔子の生きた春秋時代の末期は、西周時代に確立していた宗族制(祖先の祭祀を中核とした同姓の父系同族集団で、閉鎖性・排他性の性格を持つ)に基づいた封建制が動揺した時代でした。
生産性が増大し、私有制が発展するとともに、家父長制が発達して宗族制を脅かし、また、下克上の実力主義の風潮は、やがて君主権の強化となって封建制を解体していく時代であったようです。

そこで、孔子は、西周以来の伝統的体制を維持しようとして、封建制の理念である道徳的教化による政治を唱道し、宗族制封建制の生活規範で改めて礼を尊重し、ついに、天に包摂されつつも天からの自立している人間の道を説きます。

儒教の根本概念は「仁」にありますが、一般的にいえば、人と人とが相親しむ情意であり、つまりは人間らしさ、人間として普遍的原理となります。具体的には、前段で述べた孝悌を根本とするものでした。
この「仁」への信頼は、人間の自立性や尊厳性の自覚であり、また、礼や天下と関連させて、社会的人間としての自覚でもあったようです。

ここで言う「礼」は習俗や制度であり、孔子は、その価値基準を周初の状態におき、周公の定めた礼儀制度を顕彰します。つまりこれは、封建制と宗族制の秩序を尊重したことに他なりません。

また、秩序であるかぎり調和を前提としますが、孔子はそれを礼楽に求め<「詩に興り、礼に立ち、楽に成る(詩によって触発され、礼によって安定し、音楽によって完成する)」ことを理想としていたようです。
つまり、礼楽によって君臣庶民が秩序づけられ調和する状態を提示して、当時の下克上の風潮を抑制しようとしたようです。

この礼楽は「人にして仁ならずんば、楽を如何せん」のように「仁」を根底とし、仁もまた、孝悌を根本とする以上、秩序を本質としています。

この秩序は、当時の封建制を解体しつつあった諸侯の領主権力=下克上の風潮を抑制し、宗族制・封建制を維持しようとする旧勢力にとって好都合のものであったようです。

【儒教と官吏(科挙)】
『孝悌の秩序』は拡張されて社会の秩序となったようです。すなわち、孝は忠君感情に、悌は年長者への尊敬につながります。
そこで、父兄に相当する統治者は、臣と調和し、民を愛さなければならない。それは、租税や兵役、刑罰などの軽減や、徳による感化であり、徳治主義の政治となります。
このようにして孔子は、天子を中心として上下関係を秩序付けし直し、礼楽と征伐が天子から出るという、天下に道のある状態を幻想したのです。

天下に道がある状態は、「無為にして治まる」ときであるが、実際には有能な官吏によって支えられている。孔子は、そうした腎能を養成し、士や庶民に学問によって官につく方途を与えようとしました。

そして、春秋時代から戦国末まで、孔子の儒教は多くの人々によって継承され、展開されていきます。
元々は、宗族制的封建制を理想としていましたが、上記のように官吏養成のかたちで新時代の要請に応えていく事になります。

より広く有能な人材を確保し高級官僚に登用することを目的した科挙制度の中に儒教が導入されることになります。

<参考書籍>
 中国的思考 (講談社学術文庫/著:蜂屋邦夫)

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