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地方豪族と大和朝廷を繋ぐ「部民制」とは?

屯倉を探る(2)~中央集権化に先駆けた徴税システム~ [1]の一文の抜粋です。屯倉にいた大和朝廷の影の存在基盤として以下のように渡来人が記されています。以下抜粋
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◆屯倉の朝鮮系渡来人による活躍
屯倉での流通品=地方から大和朝廷への貢納品としては、
(1)稲、(2)食料品、(3)衣料品(4)鉄、(5)貴重品が上げられています。(るいネット:屯倉を紐解く③~徴税品目編~)これら屯倉における貢納品の管理には、帳簿管理(文字と算術)が必要となり、また屯倉での稲作のための開墾・灌漑工事や製鉄etcには先端の技術が欠かせません。
その先端の技術をもたらしていたのが、朝鮮からの渡来人なのです。
抜粋終わり
渡来人の技術が影の力となってインフラの整備、貢納品の製作、帳簿を管理することで税を朝廷へ納めことを可能としていたようです。が、地方豪族と朝廷の関係をもう少し具体的に知りたかったので調べて見ました。実は、527年磐井の乱以降に多く造られる屯倉の出来る前から渡来人は朝廷と地方豪族との「交換条件」で存在していたようです。 🙄
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KMブログ「大和朝廷の成立」 [4]からの抜粋です。
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5世紀前半のオオサザキの時代以降、倭国の大王はその権力を倭国全域に及ぼすために加羅地方からの帰化人を一元的に管理し、彼らの持つ新産業や新技術などを地方の豪族に供与することを交換条件にして、彼ら地方豪族に大王への忠誠と奉仕を求めたのです。
中略
この地方豪族との主従関係を数多く結ぶために、大王は各地の豪族同士の勢力争いに積極的に介入して、ある意味では各地の争いを煽って忠誠競争をさせて、より忠誠度の高い豪族のほうに加担して先進技術の供与を行い主従関係を結びました。各地の豪族としても、地元のライバル氏族の上にいくために大王との主従関係を求めるようになり、大王はそうした状況を利用して多くの地方豪族を従わせるようになりました。
しかし、先進技術の供与が行われてそれが各地方において定着していくようになると、もう実利面で地方豪族を繋ぎ止める強制力は少なくなり、
中略、
地方の勢力争いも流動化して混乱をきたすようになっていきました。
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抜粋終わり
この加羅地方からの帰化人を第一波と呼びます。しかしこの交換条件は上記のように長続きはぜずに5世紀末には地方政治が乱れて行きます。大和朝廷が取った対応策は以下です。
以下抜粋です。
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5世紀終盤にピークを迎えた第二波の帰化人たちは475年の百済の一時的滅亡に関わる半島南部の混乱の影響で生じたもので、主に百済からの亡命民によって構成されていました。
この第二波の帰化人たちは第一波に比べて人数も多く、倭国の王権はこの第二波の帰化人たちを計画的に移住させて、河内などに集住させていた第一波の帰化人たちの管理下に置くようにしました。そして彼らをその有する特殊技術別に分類して、錦織部、陶作部、鍛冶部、鞍作部、馬飼部などの朝廷所属の職業集団である「部(べ)」を設けたのです。
この新しい外来技術もまた、第一波の時と同じように、技術を有する帰化人を各地方に派遣して伝えていかなければいけないのですが、第一波の時のように大和王権の伸張のために地方豪族の忠誠の見返りに技術の供与を行うのではなく、この第二波の新技術については、大和朝廷による地方統治を円滑化するための仕組み作りに活用されることになりました。
まずは6世紀に入って、上記の朝廷直属の職業集団として編成されていた「部」を各地方に設置するようになりました。つまり先進技術を有した帰化人集団が各地方に計画的に移住させられていったということになります。そしてそれらの「部」を各地方においては地方豪族が管理することになります。各地方の「部」は本来は朝廷に所属する民なのですが、これを預けられた地方豪族は彼ら「部」を私有民のように扱うことを許され、その代わり、地方豪族たちは中央政府である朝廷に出仕して奉仕する「伴(とも)」という人員の供出を義務づけられ、その「伴」の供出に関する費用は地方豪族が各地の「部」を運用して得た財産から賄うよう定められました。
こうして「部」を通じて地方豪族が朝廷から利益を供与され、そして朝廷に奉仕するというギブアンドテイクのシステムが形成されていったのです。
中略
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抜粋終わり
地方の混乱に対して「部」をギブアンドテイクの関係で使ったようです。しかし地方の混乱は収まらずに磐井の乱を向かえます。
抜粋開始
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6世紀の序盤においてそうしたシステムが各地方で構築されていったのですが、そこに527年に筑紫国で磐井の乱という大規模な地方豪族の争乱が起きて、この争乱の後、争乱の首謀者であった磐井の息子が朝廷に土地を献上して赦しを乞い、朝廷がその土地を「官家(みやけ)」として、筑紫支配の拠点としたことから、この後、各地にこうした「官家」が設置されて朝廷による地方統治の拠点となっていきました。
そして、各地の「官家」を拠点として朝廷の代理人として地方の統治にあたる地方官として「国造(くにのみやつこ)」という役職が置かれるようになり、「国造」にはその地方で最も有力な豪族が任命されました。「みやつこ」とは「御奴」で、つまり大王の僕という意味でした。
国造はもともと在地の首長でしたから、地域の行政権や徴税権、軍事権、裁判権、祭祀権などの土着の権力をもともと保有していました。国造制というのはそういう在来地方権力を活用した地方統治システムなのだといえますし、そういうものでなければ全国的な統治形態が早急に成立することはなかったでしょう。
ただ、国造にもそれなりのメリットが無ければ誰もなろうという者もいないわけで、国造は各地方における大王の代理人ですから、大王の代わりに自分の支配地域内の地方豪族を支配し、それらの地方豪族による「部」を財源とした奉仕を大王の代わりに受けることが出来るようになったのです。そうした地方豪族の奉仕によって地方統治の拠点である「官家」は維持されることになったのです。これによって国造となった豪族は配下の勢力を拡大して強大化することが出来るようになりました。
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抜粋終わり
以上のように「部」を仲介とした取引関係で大和朝廷と地方豪族は大きくなってゆきます。
最終的には、地方に住んでいた農民も「部」に属すことになり、大和朝廷は間接的に「部」を通して全国支配の体制を整え、部民制が完成することになります。
地方豪族の動きは以上ですが、次に中央豪族の動きを調べてみたいと思います。

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