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鮮卑系の遊牧民王朝の隋(文帝)が本源共認の代わりに律令制を完成

中国:北魏 律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステム [1]からの抜粋です。
>律令制は強力な中央集権国家を作って人民の生産力や戦闘力などを国家に効率よく集中させることが出来るシステムであったので、この律令制を効率よく運用し発展させた国家が乱世の中で勝ち抜くことが出来るという特性もありました。言い換えると、律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステムであるのです。
zuibuntei002%5B1%5D.jpg隋:文帝
戦闘力(徴兵制度)がどのようにして国家(統合階級)に効率よく集中させることが出来たのかを追いかけてみます。
又、この統合階級の闘争下での民の意識がどうだったのかも押えてみます。
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NKブログ 「日本史についての雑文その304 律令制の成立」 [4]
からの抜粋。 【 】内は私のコメントです。

そして6世紀という時代はまさに華北は乱世の時代であったのです。まず6世紀になると地球寒冷化がとうとうピークに達し小氷期のレベルに達しました。
中略【環境外圧が高まっています】
華北よりも更に北方のモンゴル高原にも寒冷化の影響は強く作用し、その地に住んでいた柔然という部族が飢えて南下して北魏とよくトラブルを起こすようになったので、北魏は北方地域に六鎮という専門的戦闘集団の遊牧民軍団を置いて警備にあてるようにしていたのですが、均田制や漢化政策によって部族社会が解体されていくようになると六鎮の地位が低下していき、これに不満を持った六鎮が523年に反乱を起こし北魏は大混乱に陥り、534年に東西に分裂して東魏と西魏に分かれ相争うようになりました。こうした争いの中でも律令制は更に整備発展していったのです。【混乱する中で発展する制度とはどんな構造なのでしょうか?
北魏が東魏と西魏に分かれた時に六鎮の有力な軍団が東魏に集中したため危機感を持った西魏では国家防衛の兵力を補うために戸籍を民籍と兵籍に分けて、民籍の農民からは租税を徴収し、兵籍の農民には租税を免除する代わりに自前で武器を持たせて兵役に就かせるという兵農一致の制度を導入しました。これが律令制の中で均田制と対をなす兵制となる府兵制の始まりでした。これは一種の徴兵制で、これによって国家財政の負担を増やすことなく巨大兵力を動かすことが可能になったのです。
【地球全体に寒冷化という環境外圧が加わり、上記のような生き残りをかけた生存闘争(戦争外圧)が働いている。この寒冷化という状況下では、農民でいるより兵士になった方が良いという判断にもなりそうです。非常時だからこそ発展する制度の意味が分かった気がします 🙄 】
これによって西魏は東魏と対抗していくことが可能になり、西魏は557年に北周に変わり、三省六部の官制を整備して、税制も租庸調の制度が始められました。租は貸与された耕作地ごとに納める穀物でいわゆる年貢にあたり、庸は労役義務の代納物として納める物納で、調は単なる物納でした。

573年にこの北周の皇帝の外戚となったのが鮮卑族出身の楊堅という男で、北周の実権を握るようになります。そして577年に北周は東魏から変わった北斉を滅ぼして華北を統一しますが、581年に楊堅が北周を乗っ取って皇帝となり、隋を建国しました。これが隋の文帝です。そして589年に隋は南朝の梁から557年に禅譲を受けて建国されていた弱小国家の陳を滅ぼし、遂に鮮卑系の遊牧民王朝によってシナ再統一が成し遂げられたのです。
【きな臭い動きばかりですね。】

隋を建国した文帝は581年の即位後すぐに開皇律令を制定し、これは非常に整備された体系を有しており、律令の完成形といわれています。また官制も極めて整備され、三省六部や御史台を置き、官僚の登用試験として科挙を始めました。科挙というのは筆記試験によって官僚を選抜する制度ですが、要するに儒教の経典をよく理解している者は有徳な人間で、そういう有徳な人間を為政者にしたほうが良い政治が行われるだろうという理念のもとに生まれた制度なのですが、本音の部分では官僚の選任権を豪族から取り上げて皇帝が独占したいという狙いがあったのです。但し、隋唐時代においては官僚の上級職は貴族層が手放さなかったので科挙制度は骨抜きとなり、後の時代のようにその威力を発揮はしませんでした。
また文帝は仏教を国教として重きを置きました。そして民籍と兵籍の区別を無くして府兵制を一般民戸に適用して、全ての成人男子が衛士や防人の兵役の対象となりました。この新しい兵制によって隋は南朝の陳を滅ぼす際には50万もの軍勢を繰り出すことが出来るようになったのです。ここにおいて律令制は完成し、この隋の律令制は基本的にそのまま次の唐帝国に引き継がれることになります。こうして強大な兵営国家であり中央集権の律令制国家である隋帝国が戦乱の中から出現し、華夷秩序を国家理念としたシナ帝国が復活したのです。
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抜粋終わり
民は生まれた場所を無理やり追い出されて移住を強いられる。中国:北魏 律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステム [1]参照
その結果、地域共同体な規範が消失する。更に、国家(文帝)のトップは騙し合いをしながら国家を統一していく。これを、民の目から見れば、本源共認は完全に解体され、信ずるものは自分のみ。そしてその収束先が戦争ならば騙してでも勝つことに意識は向かうだろう。 👿
正に制度という収束先や、心の安寧に向かう仏教が無ければいつでも戦争状態に舞い戻る人々の集合体になったと思われます。 😮
これが、隋(以降の中国)の心底の意識でしょうか。←ちょっと驚きであり、恐ろしさを感じます。
この後に、日本にも律令制が導入されますが、寒冷化という環境外圧もそれ程ではなかった日本とはその導入環境があまりにも違います。どのように日本の統合階級は導入し、且つ生かしていったのかを次に追いかけたいと思います。 😉

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