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2009年05月12日

冊封体制ってどんなもの?

古代日本については、本ブログでも扱われているように朝鮮半島、中国の影響が大きいと思われます。
特に中国からは中央集権(=官僚体制)など数々の制度の影響を受けています。

■中央集権(=官僚体制)が国力を増強させる
秦の(中国を統一するほどの)強大な国力から考えても、中央集権国家というのは生存圧力の下では、強力な国力増強装置として働くことが分かる。一方で、朝鮮半島の国々(高句麗、新羅、百済)は、部族連合としての国家体制を維持し続けたため、中国大陸の統一王朝を真似て中央集権化を進めた日本に国力の面で劣ることになる。(よって、中世において、朝鮮半島は日本を中心とした冊封体制に組み込まれてしまう。)


今回は中国の制度や体制の中から、「日本になぜ天皇制が確立されたのか?」でも少し紹介されている「中国の冊封体制」について調べてみたいと思います。

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冊封とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。

冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。~・中略・~
冊封関係を結んだからといって冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。冊封国の君主の臣下たちはあくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。冊封関係はこの意味で外交支配であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。

冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来る。

Wikipediaより引用




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6世紀前半の東アジア国際関係
Wikipediaより

少し長くなりましたが、概要は以上のようになります。
中国はなぜ侵略ではなく冊封体制をとったのでしょうか?

「朝貢」というと、冊封国は貢物をしなければならいという印象をお持ちますが、朝貢とは中国の皇帝に対して定期的に貢物を送らなければなりませんが、その代わりに、中国は貢物以上に高価なものを返礼として与えるという、云わば懐柔的な手法です。

これは、冊封国にとってみれば都合のよい貿易であり、大国(中国)の文化などの導入も行なえるというメリットがありました。

反対に、当の中国にとってはどうだったのでしょうか?
当初、中国は毎年のように朝貢を求めていましたが、後世になると費用を節減するため、中国から朝貢の回数を制限するよう求めたようです。
これは渤海と日本の関係においても同様で、渤海が日本に対して使者を派遣し、日本側が朝貢を受け入れたと言われていますが、当時の日本には毎年、回賜を行なうだけの能力(国力)がなく、12年に1回に制限するに至ったようです。

財政をも圧迫していた冊封体制を中国が取り続けたのは、どのようなメリットがあったのでしょうか?

古代の中国では、匈奴などの周辺の民族が豊かな中国を侵略するということが幾度となく繰り返されていました。
そのような侵略に対して、討伐する目的での遠征が必要となりますが、それには莫大な費用がかかります。
逆に中国から侵略を仕掛けたとしても、侵略地は痩せた土地であり農作物を得られるという確証はありません。
したがって、そのような事に費用や時間を費やすより、朝貢貿易を通じて金品を与え、そのかわりに中国の上位を認めさせ、侵略を防ぐ=緊張を緩和させるというメリットがあったと思われます。

なお、遣隋使や遣唐使というのも、変わりゆく半島情勢(新羅の台頭)に対して、中国の後ろ盾を得る=冊封体制下に組み込まれたという見方ができるのではないでしょうか。

実際、遣隋使においては聖徳太子が「天子の国書」を送って隋の煬帝を激怒させたといわれていますが、結局は隋からは倭王として臣下の扱い(冊封国)を受けるとされています。

投稿者 yoriya : 2009年05月12日 List  

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コメント

uraraさん、こんばんわ~。
仁徳陵と応神陵の被葬者という説は難度が高いですが、蓋鹵王と昆支王の兄弟の正体については、自分もたいへん興味があります。
「鹵」は、塩の産地を意味するらしいのです。

投稿者 タツ : 2009年6月23日 20:40

タツさん、おひさしぶりです☆
>「鹵」は、塩の産地を意味するらしいのです。
ということは全然知りませんでした。
塩の産地から出たひと、ということでしょうか?
たまたま隼別王子(仁徳天皇の異母弟)の物語を
読んでいたので、本屋さんで手にとった本なのですが、
アタマの中がゴチャゴチャになりました。
修復するのに手間取っています(笑)。
しかし、何となく捨てきれない説でもあります。
古代史って、寄り道の多い領域デスネ。

投稿者 urara : 2009年6月26日 11:38

今日は。たまたまこのページを見たもので、メールさせていただきました。小生もこの説に賛同する一人です。石渡先生の解釈は、10年前に図書館で借りてきました本で知りました。30年来の古代史ファンですが、この説に出会って真実の古代史を知ることができたような、宝ものを見つけた気持ちになりました。そこでこの説の素晴らしさを広げようと自身でも本を出版しています。
昨年の秋頃に三冊目の『現代から古代史の偽装を読む』・二冊目はこの2年前に『日本古代史に偽装の源流を求めて』(共に伊丹市の牧歌舎より出版ー費用が他社より安く体裁も良かったので)是非読んでみて下さい。現在全国の約30か所の図書館に蔵書されていますので、お聞きなってみてください。

投稿者 永躰典男 : 2010年3月4日 12:22

日本史の教科書は石渡先生の説にすべて変更すべき

投稿者 村上絡 : 2010年10月6日 00:16

どうしていまの古代日本史の大学の先生は ウソ書日本書記を信じるのでしょうか?たしかに日本書記読むとおもろいですよね。ボクもほんとのことだったらいいなあなんて憧れたこともあったですよ。しかし それは所詮 人の書いた物語だからですよね。物語を真実だと思うことはおかしい。現代でも たかが100年まえこことでさへ わかったものじゃない。自分のじいさんのじいさんのじいさんの名前言える人いない。720年ごろに 620年のことわかるわけがない。ましてや4.5.6世紀のことなんて。。。。。。
3世紀の日本はきっとまだ はじめ人間ギャートルズの世界だったに違いない。4世紀もくれになって初めて支配者が出てきた。箸墓は初代半島からきて奈良県を支配した人の墓です。卑弥呼の墓であるはずがない。5世紀の倭の5王はその子孫。応神こと昆史さんはその子孫の婿で初大王様ですね。そのお母さんを僕は日本史のヒロインと思って大好きでしたが 残念ですが 架空の人物でした。で、大山古墳はその昆史さんの弟の墓。そして その兄弟のあととり合戦が極めておもしろいものだったなんて しびれてしびれて。。欽明天皇は はじめ日本書記読んだときあんまり好きでなかったけど ふるさとを取り戻そうとしたんだと思うと今となっては少し同情するね。ところで昔の最高札(=一万円札)なんだったのでしょうかね?聖徳太子は馬子で用明大王だったのですね。ボクは小学校の修学旅行は法隆寺でしたが 校長先生は嘘を教えてくれていたんですよね。悲しいですよね。オオエノ王子は実在でその兄さんは天武天皇だったなんて。最高ですよね。感動しますよね。
そして 以上の事実を ウソ書日本書記のなかから 極めて論理的に 推理され 拾い上げた探偵さんこそ 石渡先生です。異端児あつかいは それこそ史学会自信の不幸です。
石渡さんは真の歴史研究者です。 飛鳥は アスカラ の ラが 落ちたものだなんて。極上の推理ですよね。日本語は半島からきた言葉だったのですね。目からうろこが落ちます。われわれの先祖は1600年前に民族大移動した大陸からきた人たちだったのですね。
先生はもうお年みたいですね。東大か京大は 石渡先生を古代史の教授に ただちに推挙すべきです。そして、国は 古代史ノーベル賞(もしくは国民栄誉賞)を 先生にさしあげるべきです。税金で お勉強している国立大学の古代史研究の先生は 今からでも遅くありません。自家出版された先生の本 『日本古代王朝と百済』を すぐにでも購入され よく読まれ その本を学生にも購入させ 石渡説中心にして 講義をすべきです。どうして 古代史学会(本当はすぐに解散すべきです)が 先生の説と向き合おうとしないのでしょうか? センタ試験で日本史選択した自分が悲しいです。真実でないことをマークシートして 大学入試で通る国は 日本の国立大学だけでしょうね。税金の無駄使いです。山川出版の日本史の教科書すきだったんですけどね 本当に悲しいです。3世紀から8世紀の内容を書き直せ。。。。。。。
でで、以上のことを 普及に努めておられる 林順治先生も偉大です。アマテラス降臨を図書館で読んでいなかったら僕はウソを信じたままでしたから。
関祐二さんの歴史本もおもろいですが 石渡&林コンビのほうが絶対に楽しいし いい。それは 理論的な推理を伴った真実追究だから。。。。
で、マスコミももっともっと先生の説をみんなに普及すべきです。真実は真実。物語は物語。その区別くらい小学生でもできます。先生の説が真実であればあるほど 天皇さんの価値は上がります。決して下がりません。ウソ書日本書記はそれはそれで 物語としては 極めて価値あるものです。そして 事実をまげて普及することができるのは征服者 王さますなわち天皇様だけだからです。だから、真実を普及させるべきです。
46代が 実は16代程度だった。それでも それはそれでいいじゃないですか!!!
古代史は真実を追求するおもしろい学問ですよね。
みなさん真実を普及するよう林先生&石渡教授を応援しましょう。

投稿者 むらかみからむ : 2010年10月6日 02:49

うららさん、お久しぶりで~す。
応神から継体への、ぶっ飛び。やっぱ、ここですね。日韓古代史のすれ違い。すなわち、日本人の歴史認識の弱み。お墓がでっかいだけに厄介よね。
村上絡氏のように熱心なファンを惹きつける石渡&林のお仕事には敬服します。ただ、東大教授の故井上光貞氏は〝ご先祖〟を背負った歴史家で、ご本人の才能と執念だけではなく、時間の流れを感じられるお仕事をなさったと思います。(最近の東大の歴史の先生にどういう人がいるのか知らんけど。)
継体出現の謎の解明に立ち塞がる壁は厚い。もっか、わたくしをもっとも悩ませるのは隅田八幡鏡銘文です。中世に活躍した隅田一党のことを勉強しなきゃならんな。でなきゃ、あの鏡の存在理由を解説できない。と気にしながら、春からずっと兵庫県内に閉じこもっております。

投稿者 タツ : 2010年10月7日 21:01

タ~ツ~さ~~~ん
めっさめっさのお久しぶりです!
>継体出現の謎の解明に立ち塞がる壁は厚い
同感です。ひとつの(定説を覆す)ぶっとび仮説として
上記の記事を載せましたが、どうなんかいな~、
というのが現在の心境です。
ただ、継体周りがおもしろいということに変わりはなく、
しばらく平安やら江戸を浮遊していましたが、やはり、
ここの辺りに立ち返ってしまいます。
隅田八幡鏡銘文というのは難しそうですね。
すみません、わたしは全然知りませんでした。
7日に日本語の文字についての記事をUPしましたので、
そちらの方の感想も聞かせていただけるとうれしいです☆

投稿者 うらら : 2010年10月9日 22:08

林氏の倭韓交差王朝説を人がどう読んでいるのかしらべていてこちらに辿り着いた者ですが、隅田八幡鏡の話が出ていたので一言。
一番のポイントは、隅田八幡神社の贈り手「斯麻」を、昆支の子(百済王=武寧王)と読み、贈られたほう「男弟王」を継体として通説どおりにとれば、この林説や石渡説にあるような構図にはまるということでしょうね。なんせ甥が叔父に鏡を贈っているわけで、その「甥の父」がまさに昆支であるのは書紀にばっちり書いてあるわけですから。
あと、森浩一あたりは応神陵の実年代を5世紀後半から6世紀としており、昆支=応神の墓とイコールとしているのも、この説には追い風かと思います。
あと実際に、「太子不在説」を20年も前から言っているのが林説の元になっている石渡説であり、それがいまの学界の新定説になりかけているのが、石渡説の「実績」になっているように思います。

投稿者 rui : 2010年11月23日 17:53

このような記事には無駄

投稿者 松本喜久治 : 2010年12月9日 15:16

日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の 『倭韓交差王朝説』は
きわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
『倭韓交差王朝説』とは
①崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
②5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
③昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
④応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから)」を建てた。八幡大名神になった。
⑤継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
⑥欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
⑦蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
⑧蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。 
⑨馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
⑩天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。
以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、
確かに、驚くべき説で、すぐには理解できないものですが、
論理的に証明された真実です。
ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。
そしてこの『倭韓交差王朝説』で 日本史の教科書は書きかえられるべきです。
私の子共もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください
どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??

投稿者 村上絡 : 2010年12月20日 23:22

おもしろいので、熱心に読みましたが、これだけではちょっと信じがたい感じしか残りませんでした。すみません。
欽明が半島外交にこだわるのが、ちょっと不思議でしたし、
蘇我氏の出自、台頭についても、なにかもうすこし背景があるように思いますし、
百済からの人質というのが何代にもわたって来ている、とか、
武寧王や東城王が、どちらも倭から来ていた、とか、
なにか、ちょっと不思議なのに、日本書紀や古事記などでは説明がつくのかつかないのか、あやふやなのは気になります。
が、
皇極なし、推古なし・・・はどうなんでしょ。
その上、馬子と聖徳太子が同一人物?
はあ、無理っぽい。

投稿者 masami kobayashi : 2011年10月29日 07:58

古代史 読み始め 3年。 石渡信一郎論の信者になって 1年半。
そして 失礼ながら ネットで宣伝させてきてもらいましたが 
先日きっと違いないと確信したがあったので書かしてもらいます。
さすがに百済滅亡の年は660年であることは頭に焼付いてました。
しかし その日が7月13日であることは 意識の中から消えていました。
ところが、先日 百済紀の中で 涙なくして読めないといわれる
『今日で祖国は無くなった。ご先祖様の墓参りに行けなくなった。』
を改めて読んだ時、祖母の墓参りをしばらくしてないこと反省しました。
そして なぜか急に 祖母が亡くなった年のお盆のことを思い出しました。
8月13日の夜 祖母の写真が小さな漁村の盆祭りの会場に飾られ、
その周りで 集落の人たちが踊っていたことを。確かに あの時 私は
『やさしかった ばあちゃん ありがとう そして さようなら。。』と 心の底から供養していた。
ご先祖に感謝し そして決別を 宣言していました。
それで 小学2年生の少年をして 先祖に感謝・決別させたお盆について
調べてみました。そして驚きました。 お盆とは、
旧暦では 7月13日から16日にかけて行われる祭り。
仏教で 釈迦の弟子の先祖供養がその起源。 
ただし、仏教の教えでは説明しきれないことも多い。
私が確信したことがわかりますか?
百済滅亡の日西暦660年7月13日こそ 大和民族のお盆の起源に違いない。
お墓参りが出来なくなった亡国の民にとって 7月13日は特別な日だった。
年に一度だけは ご先祖様に 海を渡って やってきてもらい 祭ったのですね。
そういえば お盆最終日 京都での五山の送り火に船型が在りますよね。
ご先祖様が百済に帰るための船だ と考えるのは 石渡信者すぎますか?

投稿者 むらかみからむ : 2011年11月21日 23:57

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