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2009年05月10日

鮮卑系の遊牧民王朝の隋(文帝)が本源共認の代わりに律令制を完成

中国:北魏 律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステムからの抜粋です。
>律令制は強力な中央集権国家を作って人民の生産力や戦闘力などを国家に効率よく集中させることが出来るシステムであったので、この律令制を効率よく運用し発展させた国家が乱世の中で勝ち抜くことが出来るという特性もありました。言い換えると、律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステムであるのです。
zuibuntei002%5B1%5D.jpg隋:文帝
戦闘力(徴兵制度)がどのようにして国家(統合階級)に効率よく集中させることが出来たのかを追いかけてみます。
又、この統合階級の闘争下での民の意識がどうだったのかも押えてみます。
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NKブログ 「日本史についての雑文その304 律令制の成立」
からの抜粋。 【 】内は私のコメントです。

そして6世紀という時代はまさに華北は乱世の時代であったのです。まず6世紀になると地球寒冷化がとうとうピークに達し小氷期のレベルに達しました。
中略【環境外圧が高まっています】
華北よりも更に北方のモンゴル高原にも寒冷化の影響は強く作用し、その地に住んでいた柔然という部族が飢えて南下して北魏とよくトラブルを起こすようになったので、北魏は北方地域に六鎮という専門的戦闘集団の遊牧民軍団を置いて警備にあてるようにしていたのですが、均田制や漢化政策によって部族社会が解体されていくようになると六鎮の地位が低下していき、これに不満を持った六鎮が523年に反乱を起こし北魏は大混乱に陥り、534年に東西に分裂して東魏と西魏に分かれ相争うようになりました。こうした争いの中でも律令制は更に整備発展していったのです。【混乱する中で発展する制度とはどんな構造なのでしょうか?
北魏が東魏と西魏に分かれた時に六鎮の有力な軍団が東魏に集中したため危機感を持った西魏では国家防衛の兵力を補うために戸籍を民籍と兵籍に分けて、民籍の農民からは租税を徴収し、兵籍の農民には租税を免除する代わりに自前で武器を持たせて兵役に就かせるという兵農一致の制度を導入しました。これが律令制の中で均田制と対をなす兵制となる府兵制の始まりでした。これは一種の徴兵制で、これによって国家財政の負担を増やすことなく巨大兵力を動かすことが可能になったのです。
【地球全体に寒冷化という環境外圧が加わり、上記のような生き残りをかけた生存闘争(戦争外圧)が働いている。この寒冷化という状況下では、農民でいるより兵士になった方が良いという判断にもなりそうです。非常時だからこそ発展する制度の意味が分かった気がします 🙄 】
これによって西魏は東魏と対抗していくことが可能になり、西魏は557年に北周に変わり、三省六部の官制を整備して、税制も租庸調の制度が始められました。租は貸与された耕作地ごとに納める穀物でいわゆる年貢にあたり、庸は労役義務の代納物として納める物納で、調は単なる物納でした。

573年にこの北周の皇帝の外戚となったのが鮮卑族出身の楊堅という男で、北周の実権を握るようになります。そして577年に北周は東魏から変わった北斉を滅ぼして華北を統一しますが、581年に楊堅が北周を乗っ取って皇帝となり、隋を建国しました。これが隋の文帝です。そして589年に隋は南朝の梁から557年に禅譲を受けて建国されていた弱小国家の陳を滅ぼし、遂に鮮卑系の遊牧民王朝によってシナ再統一が成し遂げられたのです。
【きな臭い動きばかりですね。】

隋を建国した文帝は581年の即位後すぐに開皇律令を制定し、これは非常に整備された体系を有しており、律令の完成形といわれています。また官制も極めて整備され、三省六部や御史台を置き、官僚の登用試験として科挙を始めました。科挙というのは筆記試験によって官僚を選抜する制度ですが、要するに儒教の経典をよく理解している者は有徳な人間で、そういう有徳な人間を為政者にしたほうが良い政治が行われるだろうという理念のもとに生まれた制度なのですが、本音の部分では官僚の選任権を豪族から取り上げて皇帝が独占したいという狙いがあったのです。但し、隋唐時代においては官僚の上級職は貴族層が手放さなかったので科挙制度は骨抜きとなり、後の時代のようにその威力を発揮はしませんでした。
また文帝は仏教を国教として重きを置きました。そして民籍と兵籍の区別を無くして府兵制を一般民戸に適用して、全ての成人男子が衛士や防人の兵役の対象となりました。この新しい兵制によって隋は南朝の陳を滅ぼす際には50万もの軍勢を繰り出すことが出来るようになったのです。ここにおいて律令制は完成し、この隋の律令制は基本的にそのまま次の唐帝国に引き継がれることになります。こうして強大な兵営国家であり中央集権の律令制国家である隋帝国が戦乱の中から出現し、華夷秩序を国家理念としたシナ帝国が復活したのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
民は生まれた場所を無理やり追い出されて移住を強いられる。中国:北魏 律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステム参照
その結果、地域共同体な規範が消失する。更に、国家(文帝)のトップは騙し合いをしながら国家を統一していく。これを、民の目から見れば、本源共認は完全に解体され、信ずるものは自分のみ。そしてその収束先が戦争ならば騙してでも勝つことに意識は向かうだろう。 👿
正に制度という収束先や、心の安寧に向かう仏教が無ければいつでも戦争状態に舞い戻る人々の集合体になったと思われます。 😮
これが、隋(以降の中国)の心底の意識でしょうか。←ちょっと驚きであり、恐ろしさを感じます。
この後に、日本にも律令制が導入されますが、寒冷化という環境外圧もそれ程ではなかった日本とはその導入環境があまりにも違います。どのように日本の統合階級は導入し、且つ生かしていったのかを次に追いかけたいと思います。 😉

投稿者 sakashun : 2009年05月10日 List  

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コメント

放射性炭素年代測定の結果から いきなり箸墓古墳が卑弥呼の墓だと云うことへの批判点、全く同意致します。
私の記憶では、この奈良の(纏向の)前方後円墳が、日本のその型の古墳の最も古い年代に造られていて、その中で一番大きいのが箸墓古墳、
それが、そもそも箸墓を卑弥呼の墓だと云い始めた理由でした。
前方後円墳の一番古くて一番大きいものが卑弥呼の墓だ という、その考え方ってどうでしょうか?。
私個人は、卑弥呼を一旦横に置いた方が、近畿の考古学界はもっと前に進むことがかなうのではないかと思います。

投稿者 五節句 : 2009年6月19日 16:19

>墓が作られた時期と卑弥呼が死んだ時期が一致したからといって、その墓が卑弥呼の墓だというのは乱暴すぎます。墓が作られた時代に他に有力者がいないという前提はどこから来るのでしょうか。
仰るとおりです。
当時日本列島には様々な所に有力者が乱立していました。
私は、そもそも邪馬台国というのは九州か徳島県に辺りにあった、それほど強大ではない勢力だったと考えています。
強大ではないが故に支那大陸の後ろ盾が必要だったのでしょう。
箸墓古墳の権力者は、日本列島においては、邪馬台国などよりも遥かに強大な勢力だったと考えます。

投稿者 deliciousicecoffee : 2009年6月19日 21:12

>墓が作られた時期と卑弥呼が死んだ時期が一致したからといって、その墓が卑弥呼の墓だというのは乱暴すぎます。墓が作られた時代に他に有力者がいないという前提はどこから来るのでしょうか。
学者先生方・・・・・正直・・・・面倒くさいんじゃないでしょうか?
>当時の日本については魏志倭人伝(中国の史書)に辛うじて記録されているだけですが、それ以外の歴史はなかったというのでしょうか
その辺も百も承知の上で、研究上きりが無いので
適当なところに落とし所をつけて、論文を作成してゆくのが
学者界もしれません。
もう面倒くさいので、とりあえず卑弥呼の墓を決定しとこみたいな感じがあるのかも・・・・・。

投稿者 スバール : 2009年6月19日 21:56

>五節句さん
コメントありがとうございます。
放射性炭素年代測定という考古学的には目新しい方法に溺れてしまっている部分があるように思います。誤差が大きく、方法論がまだ確立していません。
また、卑弥呼の墓について、魏志倭人伝ではその大きさを「径」としており、形は円墳のはずです。造られたときは少なくとも円墳だったはずです。
一部に、箸墓古墳の前方部分は後から付け足した(葺石の有無)という説がありますが、であれば、それ以前に造られた周辺の前方後円墳も後から付け足したのでしょうか?そのことも含めて、そもそも後から付け足したのは何のためなのか?そのあたりが全く明らかにされず、言い訳的です。
謎が多いことをいいことに、学者が飯のネタにしていると云われても仕方ないような状況です。

投稿者 くまな : 2009年6月20日 03:05

>deliciousicecoffeeさん
コメントありがとうございます。
>私は、そもそも邪馬台国というのは九州か徳島県に辺りにあった、それほど強大ではない勢力だったと考えています。強大ではないが故に支那大陸の後ろ盾が必要だったのでしょう。
強大ではなかったのは其の通りでしょう。少なくとも連合を組んだ上で、狗奴国一国に手を焼くほどの勢力です。広範囲を支配できた勢力ではないですね。
>箸墓古墳の権力者は、日本列島においては、邪馬台国などよりも遥かに強大な勢力だったと考えます。
その可能性は充分あると思います。その勢力が邪馬台国を滅ぼした(併合した)と考えることも在り得ると思います。
とにかく、邪馬台国=当時の最大勢力と考えるのは、視野が狭すぎますね。

投稿者 くまな : 2009年6月20日 03:30

>スバールさん
コメントありがとうございます。
>もう面倒くさいので、とりあえず卑弥呼の墓を決定しとこみたいな感じがあるのかも・・・・・。
今回、調査結果を発表した国立歴史民俗博物館は、6年前に同じ放射性炭素年代測定という方法を使って、弥生時代を500年遡らせた方々です。
今回の調査は、5年を費やしたといいますので、ほぼそのときに「次の標的は邪馬台国の卑弥呼」と決めて、また学会や世の中をあっと言わせたいと思ったのでしょう。
そのあたりの邪心が、学者を方法に溺れさせたのではないかと思います。

投稿者 くまな : 2009年6月20日 04:01

邪馬台国=大和国
卑弥呼=媛命=ヤマトトトヒモモソ媛命ならば、
中国と日本の文献の間に間に整合性が取れるんですけどねw

投稿者 Q : 2009年7月25日 18:04

論争にはずみがつきそうです。中古にもプレミアムがつき、なかなか入手困難な書籍の一つだったのですが、このたびミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしたようです。「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』『ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底して読む』の復刻予定とのこと。 特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに古代史学界が受けたインパクトもかなりの強烈なものでした。皆でがんばりましょう。

投稿者 竹内周一 : 2010年4月13日 11:12

ヤマトトトヒモモソが卑弥呼ならなぜ記紀に女性天皇として書かれないのでしょう。中国側はその後も「女王国」と記されています。またヤマトトトヒモモソが中国に使者を送ったとも書かれていません。また記紀にはこの時期は特に記述がなくどちらかというと平和な時期であったようです。さらにその後にトヨに当たる人物が出てきません。近畿説は逆に資料があることで湾曲しないと成り立たない説かのように見受けられます。

投稿者 む : 2013年5月1日 19:33

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