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大和誕生と水銀 ③古墳築造の意味とは

シリーズ3つ目の投稿です。もう水銀は飽きたという方もいらっしゃると思うので、今日は古墳を扱いたいと思います。今日も田中八郎氏の「大和誕生と水銀」より紹介してみたいと思います。
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田中八郎さんが大和の古墳を通して古墳とは何か?を問うています。
大変ユニークな分析なので古墳追求の資料として紹介しておきたいと思います。
今日は原文をそのまま転載してみます。(全文とはいかないので抜粋になりますが、田中先生、読者の皆様どうかご容赦を)
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あらためて古墳とは何かを問い直してみてはどうでっしゃろ
野暮、どあほの声を意識しつつ踏み込みまひょ。それに墓と思い込んでいて間違いはないんやろかという点についてだす。まず古墳の特質を整頓しときまひょ。
①生産性が大きく、大群衆を養う利益が得られた。
②生産利益の種目は農業。
③人工神を誕生させた。
④戦闘集団を創設した。
⑤不特定郡集を管理し組織的社会をつくった。
⑥古墳は彼の世とこの世との合作である。
⑦古墳事業は仏教受容に比肩する新システムだった。

田中先生は上記の仮説を立て、まるで見てきたように語っていくのです。
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【古墳と事業力】
古墳は事業だした。墓の役割は副次的だと見直すことが肝要だ。
①について、草創期の古墳は、生産性が大きく、利益があがったからこそ連続して建設が実現できたし、建設した部族を強大にできたんだ。建設工事が部族の力を消耗させず、逆に部族人口と生産力を増大できたのは、性質が事業だったからだす。
今日の墓はと見れば、余剰資金の消耗で建立しており、投入資金の還元は一切ないし、期待もできない。墓を立てて金銭や生産の利益は全く無い。消耗そのものだす。その常識のままで古墳も同じだと考えると古墳につぎ込んだ余剰力と浪費の巨大さに圧倒されて、彼らの資産規模や投入資産量が想像の枠を超えてしまい、思考停止になりまっせ。
余剰金の産出のしくみが不明なまま古墳建設を考えても無駄だっせ。資産を生み出す仕組があってこそ、労働力も資財も技術も買えたし作動させられたんでっせ。余剰金を投入したのではなく、古墳建設そのものが生産手段だったんだ。
尤も、古墳が権威の誇示装置になってしまった後は、豪族が威勢誇示の形式として葬儀専用の古墳をつくりま。この際は生産手段の比重は当初よりも下がってきていた。それでもまだまだ利益は生み出しま。古墳時代中期までは儲かる仕組みは働いておりま。前期の頃は、葬儀の誇示の役割は軽く、部族間の勝敗を勝ち抜く闘争の道具や設備だした。
古墳を作った部族は衰弱せず、外部から応募する郡集が増加して人口増に比例して生産量も増え、強大化が際立った。だから古墳建設ラッシュへ突入したのだす。
(中略)
古墳を作り始めた時代は、年中、日に夜についで闘争に明け暮れてた。こんな状況で膨大な労働力と費用を長年月を費消する大塚の建設工事が、戦闘と無縁な葬儀専用であるはずがおまへんがな。戦闘集団が建設現場だけは襲わないという申し合わせがあったり、聖域として戦闘するよりも古墳建設のほうが魅力があったなればこそだ。その魅力は事業利益であり、それが周知されていたので、古墳は成功したんだっせ。
【古墳と農業】
塚がもたらす生産利益とは農産物だした。塚の建設と農地の造成は連関の工事だした。
塚が必要とする土砂量は見た目の推量を大幅に超える量で、その土採り場を平坦になるように施行すると、跡地は広い農地になりま。最初期の古墳群である箸墓、渋谷向山古墳、行燈山古墳などの足元が広やかな農地になっとりま。この農地適地は古来からの自然地形がベースにあったとしても、古墳造成のために土採取と農地造成を連関させて平坦化したことが、より一層の好適地になったとみるのがよろしはんな。
連関を示している遺物が運河だす。まき向大溝のT字交差路が小学校の運動場から検出されて延長2600mに及ぶと解説されとりま。運動場から周囲をぐるりと見ると、大溝は古墳建設の工事用運河だったことと、交易用の流通路であったことが納得できま。同時に農作業用にも活用されたんだなと思わせまっさ。
(中略)
古墳の周豪は砦としての環濠と農業用水のため池の役割りを担っておりま。古墳は周豪を掘って入手できる土砂量ではありまへん。だから盛り土は他から搬入されたもので、一方その土取りの跡が平坦になるように採取すると、これがうまいこと農地になったんだ。もしも、古墳の工事現場の周りに窪みがあれば作業にも不都合なので、土を入れ、平坦にしてから建設にとりかかりま。古墳の盛土や石室や葺き石の作業後に周豪を掘り始めたんだ。
塚の建設は人海戦術そのもので、膨大な食料が必要だから、その食糧が大きな課題だす。
食糧調達の確実な方法は、自分の働きで農作物を生産すること。
箸墓の労働者が15年間に5万人と推算されるとすれば、5万食の食糧の補給がなされたのであり、その食糧生産の農地は箸墓の周辺に広がる平坦部が頼りでしたんや。単純計算では年間3400人分の食糧生産がギリギリ必要だす。これは労働者用だけであり、支配者層や武力要員と関係者要員とを加えて年間4000人以上の食糧生産を箸墓を中軸とする盆地の東部の生産が担ったのです。
それは可能だしたやろか?農地といっても従前は畑作が主体であって、水田が新技術だした。水田は古墳によって技法が進んだと思われま。古墳での土砂固めの粘土作業が水田の畦作りに転用されたことが水田の拡大に貢献したと思われま。水田の高能率の生産が実現したが故に4000人分の食糧が可能になったんでっせ。
つまり、大郡集の労働力を必要とした古墳が実現できたのは水田という集約農法があったなればこそで、これなくして約100年間に200メートルの古墳が6基も短期集中して建設する事はありえなかったと言えま。水田農作とその生産力が先行していて、その余剰力で古墳を作ったんではおまへん。同時並行だったことに注目させられまんな。
【労働力は全て先住民】
見落としたらあかん話がおます。古墳建設も水田耕作の労務者も、全て先住民だした。
労務の指揮監督者は渡来文化の信奉者である古墳水田派だったけど、労務者全員は縄文生活者でオオクニヌシの配下だったことだす。彼らは古墳建設や新農業の合理的な生産と利益の算出に驚き参加しながら、オオクニヌシへの忠誠は強固だしたがな。
生計を立てる手段と、人間として生きる信念とを区別して両立させるのは、古代でも今日でも変わらぬ生活の知恵だす。物部、大伴、阿部、蘇我などの諸豪族と天皇家との間で権力を掌握せんとする重心が揺れ動いたが、その動きが桜井時代の主流だと判断するのは、要点からはずれておりま。
三輪山麓に大王宮が続いた時代の特徴は、天皇を含む諸豪族と先住民勢力=オオクニヌシ派とが共同社会を行っていたことにありま。宮の所在が長谷川の北部にあった頃も、南へ移った磐余の頃も、共同社会の枠組みは同じだした。
共同統治を作った基盤はふたつありま。
一つは辰砂の生産と交易をめぐる力関係だす。主交易場だったまき向市場は350年頃に廃止となり、天孫族が開発したツバ市が主力市場になる。
まき向もツバ市も三輪山麓だという地形が先住民支配となる優位的性質だした。加えて、交易は運搬が主役なので、盆地内の運搬を独占采配した人足衆が広瀬神配下だったから、実務労働者は先住民となり、運営は天孫族と先住民の持ち合いだした。
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以上、大和と水銀から古墳増築の意味とは?をお送りしました。
他にも③~⑦について詳しく書かれている部分がありますが、紙面の都合上と体力の都合上割愛させていただきます。根拠は?と問うことを憚られるような先生の言い切り型の文章は読みやすいです。
ただ、根拠はなくてもそうだろうな、という気づきは多々あります。学者が展開する古墳考古学にはない、発想、見方があり、参考になります。
続きは著書を購入してご覧になってください。紀伊国屋やジュンク堂に置いています。
では、お付き合いありがとうございました。

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