ここまでの議論を通じて、縦(例えば、古墳や鉄、武器などの単体)の繋がり、変遷は見えてきましたが、横の繋がりを見るうえで年表を作成しました。
年表は続きにあります。
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【日本は雑種国家(南方と北方文化との塗り重ね)】 | |
・ | 日本人は大陸・半島からの様々な流入民が混血しながらできあがっていった雑種国家である(近代に固有な「日本は単一民族国家」は事実ではない) |
・ | 大きくは、縄文人の上に、中国南方の呉越人の末裔が弥生的・海人族的文化を塗り重ね、さらに騎馬民族系の扶余人の末裔が騎馬的・天孫族的文化を塗り重ねて作られてきた。日本神話が南方的・海人族的要素(龍蛇信仰)の上に騎馬的要素(天信仰)が塗り重ねられて出来ていることは、重層国家日本の傍証である。 |
【古墳時代は半島の亡命豪族の連合時代】 | |
・ | 日本への大陸・半島からの渡来は、大きくは、大陸・半島での戦乱に敗北したものたち=負け組の亡命の歴史でもある。その波は大きくは、倭国大乱、任那滅亡、百済滅亡の3つある。かつて倭国の本体は半島南部にあったが、騎馬民族に押されて、倭国は次第に日本に本拠を移していった。 |
・ | 初期の亡命貴族たちは、半島での敗北体験を背景に、日本国内では、先住民との大規模な戦争=正面衝突を避け、また豪族同士も豪族連合を形成して、争いを回避していった。(戦争の痕跡は北九州・出雲地方に限定的) |
・ | 前方後円墳はその豪族連合(談合)の象徴である。 |
【律令時代は官僚制の時代】 | |
・ | 任那滅亡を契機に、半島奪回に執念を燃やす天皇家と、半島に拘らず多国間外交により日本独立を志向する蘇我氏との対立が顕著になる。 |
・ | 蘇我氏は、従来の道教的神道的な占いを媒介にした豪族連合(談合制)を解体し、官僚制の導入を進めた。 |
・ | 物部氏と蘇我氏の神仏戦争は、こうした外交政策と内政の対立を反映したものである。 |
・ | 蘇我氏による急速な改革は失敗に終わったが、官僚制は神道をも序列体制に組み込んだ中臣氏→藤原氏によって完成され、日本の律令時代が到来した。 |
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まだまだ不鮮明な箇所もありますが、ひとつのたたき台として参考になればと考えています。
【参考投稿】
■ | 「古代史年表」INDEX~主な出来事編 [4] |
■ | 「古代史年表」INDEX~外交・通商編 [5] |
■ | 「古代史年表」INDEX~半島勢力及び大陸情勢編 [6] |
■ | 「古代史年表」INDEX~主な遺跡等編 [7] |
■ | 「古代史年表」INDEX~古墳・神社編 [8] |