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稲作の普及は関東が最後になった。何故?

○最近国立歴史民族博物館(歴博)が進めてきた、加速器質量分析法(AMS)を用いた放射性炭素年代測定法で一変しようとしている。(朝日新聞記事)
集落の規模も、稲作の広まり方も考え直さなければならないという。
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記事に寄れば、

○福岡の板付遺跡から出た土器は板付式として北部九州の時間のモノサシの役割を果たしてきた。歴博はこの板付の式の土器を数多く測定した結果、形式ごとに使われた期間が分かってきた。
板付Ⅰ式は70~80年、Ⅱa式が約130年、Ⅱb式は約150年。
このことはこれまで弥生式土器は30~50年の周期で形式が変化したと考えてきた考古学者を驚かすことになった。
土器の存続期間が長くなった影響は大きい。
遺跡で複数の住居跡が確認された場合、床面から同じ形式の土器が見つかれば、同時に存在した住居と見做すのが一般的だったが、これからはその考えが成立せず、集落には同時に何軒の家があり、人口は何人だったのかなど弥生社会は根底から再考をせまられることになった。

○暦博は全国の市長村などに測定する試料の提供を呼びかけた結果、約1万点が集まり、形式が明確な土器を優先し、約5000点を測定した。
その結果、各地域で水田が出現する土器を繋げると、稲作の広がり具合が見えてきた。
それによると、紀元前10世紀に北部九州に上陸した水田耕作は、まず前800年ごろ四国の西部と南部に伝わった。次いで瀬戸内に広がり、前650年ごろ近畿圏に到達し、前500年ごろ名古屋で始まっていた。
ところがこの先、東進の痕跡がなかなか現れない。関東で水田が確認されるのは前100年ごろ。

<関東の弥生式遺跡の事例紹介~小田原中里遺跡・最近の発掘結果では前100ごろに水田耕作が行われていたことが確認された>
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中里遺跡 [3]での発見による新説 関東地方での水稲栽培
「地図で見ても分かるように酒匂川とその支流に囲まれた「水田」を作るにはとても適した場所です.また,海にも近く気候も温暖でした.この「海に近い」ということがとても大切なことであることが,あとでわかったのです.」

その一方、日本海沿いに稲作は北上し前400年ごろに青森に到達。そこから太平洋を南下していた。
関東の稲作は、西からではなく、北から伝わった可能性が見えてきた。稲作の普及は遅々として進まなかった。なかでも東海と関東の間には深い溝が見えたきた。

国学院大学の谷口康浩准教授は「農耕の需要を新たな生産手段の獲得という視点ばかりで見てきたのではないか。文化の受容や拒否には、それを受け入れる側の動機、志向性が大きく作用する。関東地方には独自の文化があり、異質な文化の受容に反発があったのでは」と考える。
縄文と弥生という異なる文化は本州の東西に分かれ数百年の長さにわたり並存していたというのだ。

                                                    引用終わり
農耕は大地を痛め冒涜することだ忌み嫌ったモンゴルの遊牧民のように、採集生活をしていた関東地方の縄文人は水田耕作を受容しなかったのか、或いはまたその必要性が希薄だったのか。
この記事はつづきがあるということですが、何故関東地方には稲作がなかなか浸透しなかったのか、とても興味の湧くテーマです。

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