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弥生時代の戦いの痕跡を追って 山陰地方の遺跡~青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡から

弥生時代における戦い跡を紹介するのに、よく引き合いに出されるのが、青谷上寺地遺跡です。
今回は、この遺跡と、同じく弥生時代に山陰地方で栄えた、妻木晩田遺跡との遺跡を通じて、山陰地方における弥生時代の集落の様子を紹介してみたいと思います。
 
 
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<刃物傷を持った人骨(矢印部) 青谷上寺地遺跡出土>
 
  
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■青谷上寺地遺跡
 
まず、青谷上寺地遺跡の概要ですが、位置は、現在の鳥取県の中央部の青谷にあります。弥生前期後半(AD2世紀中頃)から後期後半(3世紀中頃)まで存続していました。
 
 
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<青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡の位置関係>
 
 
  
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<青谷上寺地遺跡遠景 中央やや上の辺り 鳥取県HPより [3]
 
 
この遺跡が注目を集めるのは、戦いによって殺害されたと思われる骨が大量に発見されていることもありますが、同時に、生活用品を始め、当時の営みをうかがい知ることのできる大量の遺構・遺物が出土していることにあります。
 
 
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<出土品写真 鳥取県とっとり弥生の王国 [4]HPより>
 
現代でこそ陸地の中に存在していますが、当時の青谷上寺地は、干潟を伴う海岸の入り江(潟湖(せきこ))に位置し、良好の港を擁していたようで、日本海を通じた交易の中心地として栄え、中心地の周囲には水田が作られた集落であったようです。
 
発見された遺構や遺物を見る限り、農機具等の日常生活品や、まじない道具、建材等は、多く発見されており、比較的平和裏に暮らしていたようです。
 
また、朝鮮や中国由来の鉄斧等をはじめ、多くの鉄製品が多く発見されており、妻木晩田遺跡と合わせると、九州に次ぐ規模の鉄器の生産・使用がおこなわれたていたようです。
 
「とっとり弥生の王国の謎を探る」 [5]によると、
 
青谷上寺地遺跡の大型鉄斧や妻木晩田遺跡の踏み鋤(すき)(土掘具(つちほりぐ))など、北部九州でも出土していない朝鮮半島製鉄器がみられることから、高まる鉄器の需要に、北九州を窓口とする交易だけでは十分な量をまかなえず、直接朝鮮半島との交易を試み、鉄器を獲得していた可能性も推定されています。
 
朝鮮半島とのかかわりという点では、大量に発見された卜骨(ぼっこつ)も見逃せません。卜骨とは、骨卜(こつぼく)という占いで使われた猪や鹿などの骨の遺物のことで、骨卜とは、骨の表面に火のついた棒の先を押し当ててその熱によって生じるひび割れ具合を見て占うものです。猪の肩甲骨の節部分が互い違いになるように重ね合わせたものを1セットとして、3組がほぼ一列になるように大切に並べられたものが発掘されており、類似した発見例が韓国の慶尚南道の勒島遺跡でもあることより、物的なものだけでなく、精神的な面でも朝鮮との交流があったことが推定されています。
 
 
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<卜骨 鳥取県とっとり弥生の王国HPより [6]
 
 
さて、青谷上寺地遺跡といえば、殺傷痕のある人骨が大量に発見されたことで注目を集めました。通常、人骨は土に埋められると分解され跡形も無くなるため、甕棺などで埋葬された状態のものを除き、発見されることは稀なのですが、保存条件がよかった同遺跡では土中から計109体もの人骨が発見されています。通常人骨は交連状態(生きていたそのままの姿を保った状態での人骨≒埋葬されたもの)で発見されることが多いようですが、同遺跡では、バラバラの状態の骨として発見され、多くの死体を折り重なるように無造作に穴に掘り込んで埋めたとも思えるような状態であり、ほぼ同時期に埋められたことが推測されます。内外形が分かる頭蓋骨は32個分、全人骨数109体と大きく数が合わないのが少し不気味ではあります。
発見された人骨のうち、頭頂部や肋骨等に殺傷痕を伴ったものは、110点、計10体分となります。これほどの量の殺傷人骨が発見された例は他になく、何らかの戦闘行為によるものと考えらています。犠牲者は、男性ばかりでなく、女性や5歳程度の子供も含まれています。傷口には治癒の跡は見られず、ほぼ即死状態だったことが伺えます。
 
また、この殺傷痕を含んだ人骨の年代が、丁度、倭国大乱の時期と合致するため、倭国大乱の痕跡でないかと言われることがよくあります。大乱というと、多くの兵士を総動員した大国同士の大規模な戦乱が起こったかのようにイメージされますが、最も多く殺傷痕人骨が発見された青谷上寺時遺跡を大乱の跡だと考えると、発見された人骨の量などから、集落レベルの地域集団間同士のぶつかり合いによる戦乱であり、「倭国は大いに乱れ」とは、同規模の戦闘が各地で頻発していたことを述べている可能性もあるのではないでしょうか。
ただ、この時代の倭国の戦乱状態については、青谷上寺地遺跡だけをもって語ることはできないと思いますので、今後に対するさらなる追及課題としたいと思います。
 
 
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     <やじり>
 
 
青谷上寺時では、この戦いが行われた時期以降も、古墳時代に入るまで、集落として存続していたようです。
 
 
 
■妻木晩田遺跡
 
続いて、妻木晩田遺跡について、少し紹介してみます。
 
妻木晩田遺跡は、大仙の麓、淀江平野や日本海を見下ろせる丘陵地にある、高地性集落です。弥生後期初頭(1世紀中頃)から後期後半(3世紀中頃)の約300年間に渡って存続しています。遺跡は丘陵地に点在しており、合計面積は170ヘクタールにも及ぶ、弥生時代最大級の規模を誇る遺跡です。遺跡には、住居跡、計418棟、掘立柱建物509棟発見されています。その他、四隅突出型墳丘墓34基があり、このことから出雲勢力下にあった遺跡であることが伺えます。
  
  
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<四隅突出型墳丘墓 「弥生の里」妻木晩田遺跡HPより [7]
 
 
集落地が丘陵地にある一方、食糧収穫場所としての水田は淀江平野にあったと推定されています。また当時の淀江平野には潟湖が存在し、北陸や朝鮮半島とも交易を行なったほどの良好の港を有していたようです。
 
高地性集落というと、九州や瀬戸内が有名ですが、この遺跡においても、環濠跡や物見櫓、投弾(石製)、狼煙場など、防衛のためとも想定される施設も発見されており、農作物や交易は平地で行いながら、居住地は、海からの進入に対しても見晴らしがきき防御性もある高台に築かれて続けていることから、周囲に対しても緊張関係を保っていたことが伺えます。ただ、実際にこの遺跡での戦乱跡は発見されていません。
  
高地性集落については(高地性集落ってなに?) [8]を参照
 
 
青谷上寺地遺跡のところでも紹介しましたが、300点を越える鉄器が出土しており、当時としては、鉄を入手しふんだんに使用可能な勢力の拠点だったことが分かります。北九州で出土していない土堀具なども発見されていることより、当時朝鮮半島の窓口としての北九州を経由せず、青谷上寺地遺跡同様に直接半島との鉄製品等の交易を行えるほどの勢力だったようです。
  
  
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<鉄製農工具 鳥取県とっとり弥生の王国の謎をさぐるHPより [5]
 
 
■青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡のまとめ
両遺跡とも、日本海を又に駆けた交易で、しかも朝鮮や中国との独自の交易ルートを持つことで、当時大陸への玄関口であり、かつ強大な力を持っていたと思われる北九州勢力に比較的左右されることなく交易を行っていたことが、栄えることができた大きな理由であったことが分かります。
また、200年前後(倭国大乱があったとされる時期)に最盛期を迎えると同時に、青谷上寺地では、発見された殺傷痕人骨が物語るように、何者かに襲われ、戦乱に巻き込まれています。その相手は、橋本達也氏によると [9]北九州勢力であり、北部九州と青谷上寺時との間に存在する、同時期に最盛期を迎え栄えていた妻木晩田遺跡では戦乱の後が見られないことから、想像力を膨らまして考えると、同地域でもっとも大きな勢力を誇っていた集団の一つである妻木晩田が、北部九州勢力と結託し、交易上のライバルであった青谷上寺地を追い落とす戦乱に協力した可能性もかんがえられなくもないのではないでしょうか。
 
弥生時代に大きな勢力を誇り、上記の戦乱後も存続していた青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡の両遺跡ですが、古墳時代の始まりと共に衰退してしまいます。古墳時代に入ると、権力の中心が地方からヤマトを中心とする勢力に集中していきますが、その影響によるもの、逆に言えばヤマト勢力拡大の一つの証拠が、両遺跡の衰退といえるのではないでしょうか。
  
 
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