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2009年04月19日

大和誕生と水銀 ②宇陀の水銀

こんにちわ。 管理人のtanoです。
最近の縄文ブログ、かなり活性化していますね。 😀 コメントもたくさんいただき、この4月にはあたらに4名ほど会員が増えました。近々、会報の発信をする予定ですのでお楽しみに・・・。 8)
今日は、前回「大和誕生と水銀 ①大和の歴史」に続き水銀シリーズ第2弾をお送りします。
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その前にこの水銀シリーズを始めるきっかけになった田中八郎氏の桜井のペンションの紹介を少しさせていただきます。前回のカナちゃん同様に行楽シーズンのこの5月にぜひ、桜井に行って歴史を堪能してきてください。
ペンションサンチェリー↓は全12室で宿泊費は1名8525円~となっています。
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外観を見るだけで楽しくなりますね!

何より、このペンションに行けば田中八郎氏から大和のいろんなお話を聞く事ができるのです。
「桜井が大和誕生の地であるので、大和の原点を訪ねる歴史話をしましょう。夕食の時に「案内話を頼む」と注文すると、少し偏屈な親父が語ります。(体調不順な際は休みです)。真実から離れてしまった通例の大和史観と異なり、ユニークな大和古代史をお楽しみ下さい。その歩き方を案内します。」~サンチェリーHPより
私は仕事で手一杯でいけないのですが・・・・ 😥
さて、本題の水銀第2弾ですが、今回は宇陀と水銀の関係を明らかにしていきます。
その前になぜ水銀なのか?秘密は中国の漢方にありました。
日頃お世話になっている漢方薬とは水銀を使った不老長寿の薬だったのです。
今回も少し長いですが、頑張って読んでみてください。(田中八郎氏の著書「大和誕生と水銀」の中から抜粋していますが、田中先生の味のある大和訛りを省略させていただいています。先生すいません。
興味のある方はぜひ原文を読んでみてください。
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【何の為に水銀が求められたのか?】
中国の不老不死の薬に水銀が求められたことは有名な話である。
道教では中国大陸の風土に自生繁殖した宗教で、有史開幕と道教の歴史は同一ではないかと思われるほど起源は古い。その道教とは医薬を研鑽し、集大成したのが漢方であり、その極点が不老不死の処方である。水銀を主薬とする不老不死の処方は700を超えるとされ、処方の研究を錬金道(術)と呼び、成果品の調合薬を金液丹という。
錬金とは西欧の中世では普通の金属を金銀に変化させて騙すインチキの事をいい、中国では不老不死長生をめざすことを錬金道という。錬金道とはつまるところ、水銀の化学処理によるもので、水銀を駆使した医療治癒力を過大評価して長生を願望し、また水銀を駆使してこそ、金が抽出、精錬できることもあって錬金思想と不老不死は癒着したものである。錬金道には、皇帝をはじめ権力階層には特に実現に狂奔した。水銀調合薬を飲用した結果、紀元前200年の頃から10世紀までに歴代の皇帝11人が水銀過多とみられる死に方をしている。それでも不老不死の追求と水銀信仰は衰えない。薬効がないのは、大陸の水銀の品質が粗悪と考えた。そこで良質水銀の探索が行われ、中国の蓬莱山のものが良いとされ、またその代用品として宇陀の辰砂が渇望された。
【中国の水銀の歴史と効用】
中国の水銀は産出量も多く、利用の歴史も長い。殷王朝(前1100年頃)の遺跡「殷墟」から発見された玉製の戈やト辞を刻んだ甲骨からは水銀朱が使われていて、すでに高度な水準だった。秦の始皇帝は前210年に不老不死の実現を試み、蓬莱山から神仙薬の入手に奔走している。ヤマトで水銀の発掘が始まる1200年前から中国では水銀の利用が重ねられていた。
また水銀の効果は防腐力という点ですさまじい。遺体の防腐に成功した事例として中国湖北省の荊州博物館のミイラがある。1975年に発掘されたミイラは薄紅色の液体に浮かんでいた。そばの竹簡によれば、紀元前167年の遺体である。そのミイラは内臓も鼓膜もほぼ完全に保たれ、胃には胃潰瘍の後まで残っており死因まで確認できる。驚く事に2200年間内臓と鼓膜まで保存した技術であった。容器の中にあった液体は硫化第二水銀であった。
この事からも中国の水銀技術は世界に比類なき高度なものであり、この技術を発展したのが漢方の薬学であった。
【漢方の薬学と水銀の関係】
不老不死の究極の願望を身近に近寄せたのが漢方である。700に及ぶ処方の研究は、水銀を主原料とする薬で不老、神仙、軽身を効能に掲げ、長命を目指した医薬だった。
富裕層が競って服用したが、老衰と発病にかかり、それでも大陸水銀の品質の問題にした為に蓬莱山に水銀を求め、その行軍が徐福であった。東海の島にあると言われる蓬莱山を目指した一行は和歌山県新宮市に渡来したことになっている。彼の目的が辰砂だとすれば、熊野に上陸して植民したコースは神武天皇が宇陀水銀を目指したコースと重なる。
徐福が蓬莱山を三輪山にあてはめて宇陀水銀を採掘したと考えられないことも無い。
【宇陀の水銀】
宇陀水銀の発見は大陸と列島との恒常的な交易を意味する。
卑弥呼の時代にその交易は始まり、以降500年を継続したと思われる。
水銀は零下39度で固化し、常温では液体の金属である。体温計の水銀が上下するので滑らかな液体であることは想像できるであろう。体温計と同じように身近に使用している例は蛍光灯、水銀灯、捺印に使う朱肉である。製造中止にはなったが水銀電池と赤チンも水銀で作られている。薬用以外にも水銀は有用な鉱物として採取されたのは、鮮やかな朱色を顔料として使う為で、辰砂と呼ばれた鉱石である。辰砂が使用されたのは前15世紀と見られている。後になって辰砂から水銀が分離抽出され、メッキに使われた。メッキが日本に使われたのは六世紀後半から。仏像に塗る金メッキとして重用された。奈良の大仏に宇陀の水銀が金メッキとして最大使用して使われたのは有名な話である。
%E8%BE%B0%E7%A0%82.jpg←辰砂の原石
%E8%BE%B0%E7%A0%82%E9%87%89.jpg←辰砂釉
水銀は深い地層が本来の在所である。宇陀と桜井と高野山で採取されやすかったのは、断層で地表に近づいたからである。伊勢から室生、宇陀、桜井、飛鳥、高野山、紀ノ川河口へ、さらに徳島、松山までが列島最大規模の中央構造線と呼ばれる断層地帯です。この断層の北側に水銀鉱床があって、これは新生代第三紀(500万年前)以降の火山活動の熱水現象によって生成された。
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先にも書いたが、辰砂水銀が威勢良く活躍した時代は卑弥呼の時代から以降500年間に当たる。宇陀地方での産地は太平山―伊那佐山―音羽山、このラインが幹線的な鉱脈地帯である。宇陀の辰砂地帯に近接する莵田野町は北海道を外して日本では水銀生産量の第一位に終始している。その採掘はつい最近の昭和49年まで続いていた。採算性が悪くなって企業の操業が停止したのが最後で、辰砂が枯渇したわけではない。
宇陀の辰砂の採掘は地下30mの坑から行われていた。
奈良時代の須恵器が旧抗から発見されており、既に当時でも地表の露天部分の辰砂は採掘されつくしていたことを示している。
宇陀地方の水銀鉱脈地図

投稿者 tano : 2009年04月19日 List  

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