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藤原氏を探る 祖神のすり替えと神話作り

こんばんは。
>社殿の起源は力のある豪族や氏族などが自分たちの氏神【守護神信仰】を祀るために造ったと考えられる。元々の氏神は、「氏」の神と書くように、その地域に住む豪族が祖神または守護神として祀っていた神のことを指します。
>「日本神話の神々がベースとなっている祭神って何?」
「やっさん」が「神社の起源と古代日本の社会構造(仮説)」 [1]で書かれていますが、元々の守護神としての氏神(祖霊神であったろうと思われます)が、神話に出てくる祭神へと置き換わっていったのは何故でしょうか?
日本書記を、自らの正統性を主張するために改竄し編集した藤原氏(不比等)。
まずは藤原氏の神社や氏神との関係から押えてみたいと思います。
こちらが春日大社です。
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●藤原氏の氏神
・藤原氏の氏神は、守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神。
・氏神を祀った神社は、大和国添上郡の春日神社、河内国河内郡の枚岡神社。
・武甕槌命は鹿島神宮から、経津主命は香取神宮から、天児屋根命と比売神は枚岡神社からそれぞれ迎えて祀っています。その為、枚岡神社は元春日と言われています。
以下、ミスターフォトンの浮世鍋 [4]さんより紹介させていただきます。
●神宮と神社

・日本書紀においては、伊勢の神宮と石上神宮のみが「神宮」と記載されていた。
・その後、平安時代に成立した延喜式においては、石上神宮に代わり鹿島神宮と香取神宮が「神宮」と記載され、江戸時代まで「神宮」を社号とする神社は、この3社のみであった。
・石上神宮は本来、古代豪族「物部氏」が祭祀する神社であった。石上神宮の社伝によれば、当神宮のご神体の布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、天津神から高倉下の手を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏によって宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建であるとされている。

☆石上神宮が「神宮」と呼ばれていたのは良しとして、なぜそれが中央から遠く離れた鹿島神宮と香取神宮に取って代わられたのでしょう?
●祖神のすり替えと神話作り

・藤原不比等は記紀編纂にあたって、万世一系の天皇家の権威の確立と皇室を補佐する藤原氏の正統性を揺るぎなきものにするため、多くの氏族から伝承を集め、各氏族の領地の安堵との交換条件で、氏族伝承を買い取ったとも言われている。
・伝承を売った中央の有力氏族は、その地位に応じた新しい天津神の祖神を、地方氏族は国津神を受け取った。
・同様に藤原氏も、それまでの祖神に代えて、天皇家に繋がる天津神系の神を祖神とした可能性が高いと思われる。
・また同時に、藤原氏本来の一族神「武甕槌命」「経津主命」の、国譲りの大功労者としての神話の創作が行われたのではないか。
・そして、鹿島神宮・香取神宮が神宮の名称を名乗ることは特別な意味がある。神宮とは本来、皇祖神を祭る神社の名称であった。鹿島神宮、香取神宮の主祭神「武甕槌命」「経津主命」は、大和平定に功績のあった特別の神とされる。つまりは藤原氏は天皇家にとって最も貢献した一族であることを示しているのである。
・本来物部氏が持っていた宮中の祭祀権も中臣氏によって独占され(中臣神道の成立)、石上神宮の神宮の名称が剥奪されたうえに、新たに中臣氏(藤原氏)の一族神として武甕槌・経津主二神が鹿島神宮、香取神宮に祭られたのではないだろうか。
・藤原氏にとって天児屋根命は、いわば権威付けのための名目上のお飾り的祖神であって、あまり馴染みがない。そこで、本来の氏神であった「武甕槌命」を春日大社の第一殿に、第二殿には「経津主命」を置き、新祖神、「天児屋根命」は第三殿に祀ったのではないかと推察する次第である。

藤原氏は豪族との間で、伝承と新しい神とを取引していたんですね。
やはり支配された側の論理や資料で歴史を見ないと謝ってしまいます。
でも一体なぜ茨城の地だったのでしょうか?
鹿島神宮の造りは出雲大社と良く似ており、元々は出雲神の祭祀の地だったとも言われていますし、
また調べてみたいと思います。

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