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北方モンモンゴロイドの渡来からマヤ・インカ文明への道筋は?~メキシコでの農業の開始から要塞都市(モンテ=アルバン)の建設まで~

今回のテーマは、古代アメリカでの農業生産からマヤやインカといった文明に至る筋道なのですが、一体なぜ文明が興ったのか?というテーマそのものでもあります。
歴史の教科書では、
0.農業の発明

1.富の蓄積と灌漑事業の必要

2.権力者の出現と階級社会

3.文明の発祥

と書かれる事が多く、確かにそういう順番で遺跡が発掘される例が多い。
ところが、なぜそうなったのか?を考えると、これらは論理的には繋がっていないのです。
アメリカ古代文明を探求する事でその構造を切開しようというのが本編のねらいなのですが、やはり難問です。 🙄
そこで、メキシコの「テワカン谷での農業の確立」 [1]に続き、(その南西160kmにある)「オアハカ盆地の要塞都市(モンテ=アルバン)」を取り上げ、文明の発祥を(仮説思考で)提起する事にします。
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農業の発達の歴史が見られるテワカン谷では、灌漑用水路は整備されたものの都市的なものは建造されていません。
一方、今回取り上げる「オアハカ盆地のモンテアルバン」では巨大な神殿や要塞的な施設が建設され、大規模な集団の統合の形跡(=文明?)が見られます。
ちなみに、このような中央アメリカ古い文明は、
●3200年前頃に、メキシコ湾岸のジャングル(オルメカ文明)
●2500年前頃に、オアハカ高原盆地(サポテカ文明)
●2100年前頃に、メキシコ高原盆地(ティオティワカン)
の3地域で発生しました。
●3500年前ごろ
「オアハカ盆地」は、巾10km、長さ30km程度の3つの小盆地が合体して一つの大きな盆地をなしているが、3500年前ごろに3つの盆地のそれぞれの要所にサン=ホセ=モゴテ、サアチラ、ミトラという3つの都市が建設されました。
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オアハカ盆地の地図
~ウィキペディアさんからお借りしました~
●2500年前頃に
オアハカ盆地を形成する3つの小盆地の中央部分に盆地を一望できる丘があり、その頂上部分に要塞都市「モンテ=アルバン」が建設されました。 (盆地の総人口5万人の1/3が居住したと考えられている)
「モンテ=アルバン」は盆地の底部からの標高差が400mあり、天然の要塞です。さらにその頂上部分を平坦に削り、傾斜が緩い部分には土と石で巾15~20m、高さ4m~5m、全長3kmの擁壁が築かれています。
「モンテ=アルバン」の中心部には広大な広場と、神殿か天文台かと思われるような建物がありますが、これはその形態と規模から、単一集団の居住や農作業を目的とした施設ではなく、神事か軍事に関する施設と考えられます。
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モンテ=アルバン中心広場と神殿J
注目すべきは、ある建物の外壁周辺で見つかった、等身大の人物像と文字と思われる記号が彫られた150個以上の石板です。
石板の人物像は敗北や貢納を示していることから、この都市は3つの盆地の勢力が拮抗し、覇権争いの結果、優勢になった勢力が築いたと考えられます。 (サン=ホセ=モゴテの勢力だと推測されています)
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石板「踊る人」です。このように裸にされ去勢されているものが多い(こういうのが150個以上出土)
~写真は「マヤ遺跡探訪」さんからお借りしました~ [4]
●このように「盆地を後背地とした都市」という構造は、メキシコ高原盆地のティオティワカンも同様で、メキシコ高原盆地の中で、テスココ湖周辺の低地(現在のメキシコシティー)を後背地として、やや小高い平原に巨大ピラミッドのあるティオティワカンが築かれました。
(ただし、メキシコ湾岸のオルメカ文明はそうではなく、一体はジャングルで、中心的な都市は巨大化せずにあちこちに移動したあげく、滅亡しています。)
★では、「モンテ=アルバン」のような都市が建設されるようになったのはなぜか?
乾燥化が進むメキシコ地域では、狩猟や採取生産から農業生産へ移行。
トウモロコシを中心とした灌漑農業を開発して定住し、集団を存続する事ができた。

盆地の灌漑農業によって自然外圧を克服し、その限界まで人口は増えたと思われる。(さながら樹上世界を席巻したサルのようである。)
集団間は、基本的は友好関係で繋がっていたと考えられるが、生産様式の違いから狩猟や採取生産集団とは一定の緊張関係があり(盆地側から見れば防衛・結束の必要)、さらに農業に適した盆地は限られるので農業集団間の緊張圧力(土地や水をめぐる小競り合い)も高まったと思われる。
特に、3つの小盆地が拮抗した「オアハカ盆地」や、巨大な湖周辺に諸部族がひしめき合った「メキシコ盆地」では集団間の緊張関係は恒常的なものになっていたと考えられる。
●参考に、1000年以上後のメキシコ盆地の話
アステカ部族はメキシコ北西部の平原からやって来てメキシコ盆地を放浪したあげく、盆地周辺部族に認められてやっとテスココ湖の無人島湿地に居を定める事ができた(そして、逆境から攻勢にでて一気に中央アメリカを制覇するに至る)という史実も盆地での緊張関係を示している。
★集団内は共認原理で十分統合できたとしても、集団間の恒常的な緊張関係を秩序化するにはより大きな統合が必要で、その統合力は(サルと同様に)「力」しかない。力の誇示が統合の証となる。
オアハカ盆地の要塞都市モンテ=アルバンは、盆地内で優勢になった集団がその「力」を明確に示して「結束」するために建設されたのではなかっただろうか?
まとめると
0. 狩猟・採取生産部族と農業生産部族の緊張圧力
    +
1. 農業生産部族間の緊張圧力
   ↓↓
2. 集団を超えた統合(防衛・結束)の必要
   ↓↓
3. 力の原理による集団間の序列化
   ↓↓
4.モンテ=アルバン(要塞都市や大神殿)の建設

アメリカの古代文明には全般を通して「私権」的な要素は見あたらないが、(特に中央アメリカには)はずかしめや人身御供、戦闘や球技、権威的な飾りものなど「権威」や「力」を示す記録はたくさんある。(勝手に私権的な解釈をしないよう注意が必要)
その点から見ても、中央アメリカの古代文明は、集団間の緊張圧力が生み出した、集団を超えた「力」による統合様式であったと思われる。
それは巨大化(ティオティワカン)や分散化(マヤ)など多様な試行錯誤を繰り返し、西洋文明とは異なる進化を続けていったのである。
by tamura

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