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南米における文明の道のりを探る

nanndeyaさんが中央アメリカを検証されていますので、私は南アメリカを扱います。
南アメリカで文明と言えば、インカですが、そのインカに繋がる文明の道のりを探ります。
さらに旧大陸の文明の推移とどう違うのか?それは何故かを考えながら進めて行きたいと思います。
Una_pintura_rupestre_de_la_cueva_de_Toquepala.jpg
トケパラ洞窟の壁画です。有名なアルタミラの壁画と比べてみても遜色ありませんね。
つまり、当たり前ですが、ヨーロッパに進出した人々と、はるか南米まで進出した人々の潜在的な能力において違いは無いということです。
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [1]
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南米に移住した人々が残した足跡を追ってみましょう。
いろいろな時代区分はありますが、大きく、
1:農耕、牧畜の始まりまで
2:都市が造られるまで
3:国家の誕生までからインカの誕生まで
の3段階に分けてみます。
1:農耕、牧畜の始まりまで
1万2000年前
ペルーのピキマチャイ洞窟に人が住み始めた。・・もっと古いという異説もあり
実際もっと古い遺跡も発表されていますね。

1万1000年前
チリの首都サンチアゴの近郊にあるタグワタグワのマストドンの解体処理場の遺跡やフェルズ洞窟に基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器(クローヴィス型尖頭器とよく似ています)を用いた狩人たちの遺跡があります。
9500年前
ペルーのトケパラ洞窟やアルゼンチンのラス・マノス洞窟には洞窟壁画が描かれています。冒頭に紹介した壁画です。
8000年前
北高地のギタレーロ洞窟出土の植物遺存体などから、とうがらし、カボチャ、ヒョウタン、インゲンマメなどの栽培が確認されています。
又ラウリコチャ遺跡のⅡ期(8000年前~5000年前)、ウチュクマチャイ洞窟の5期(7500年前~6200年前)にラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られることからラクダ科動物を飼育しようとする試みがなされはじめたようです。

この時代は、集団が、生存圧力に対抗し、食料の確保という課題に向かって可能性を求めた時代といえます。
5500年前
 リマ市から北に370キロ離れたサチン・バジョ遺跡では土器などの他に、非常に整然と作られた都市の構造物の一部と見られる遺跡などが見つかっています。
又チルカとアンコンで綿の栽培が始まります。魚網や織物に利用したと思われます。

5000年前
ひょうたんの栽培が始まる。容器や浮きに利用したと思われます。
このように、農耕の始まりも、旧大陸と大差がないですが、違いはアンデスの気候と風土です。アンデスは全くといって大河は無く、標高も高く、大規模な農耕が展開できる地域ではありません。その為、農耕による余剰食糧が生じる比率は旧大陸と比べて非常に少ないのです。
その為、人口増加のスピードはかなり遅かったと思われます。
2:都市が造られるまで
17.jpg カラル遺跡
 日系ペルーさんからお借りしました [4]
4800年前ラス・シクラス遺跡4600年前
カラル遺跡
リマ市北方のチャンカイ谷のラス・シクラス遺跡、スペ河谷のカラル遺跡に石造建築を主体とする神殿遺跡があります。
実に多くのピラミッドがあります。

統一された国家という物が影も形もない時代に、これだけの建造物を創り上げている事は、メソポタミアやエジプトとは大きく違います。又戦争の痕跡がない。城壁のような物はなく、どこからでも自由にはいる事が出来る。さらに、食料の生産地からかなり離れている場所なので、交易が行なわれていたと考えれています。
武力統合による国家の成立以前の話なので、勿論市場は無く、かといって緊張関係にある集団同士の贈与というよりは、神殿といった祭祀建物による、統合が成されて、その統合力によって、人や物資を集める事が出来たのではないかと思います。
力の原理でなく、神殿を共同作業で造り上げる事が、集団間の緊張を和らげ、統合したという事でしょうか?
カラル以降も同じような文化が後を引き継いでいます。
3800年~2100年前
ペルーのコトシュ遺跡
アンデス山脈東斜面の半乾燥地域にある祭祀遺跡文化の総称。「交差した手の神殿」が知られています。
川に面した段丘に古い方から順にミト、ワイラヒルカ、コトシュと重なっている遺跡です。さらにその上にチャビン、サハラパタク、イゲーラスと各時代の建築が上に重なっています。
ミト期には上塗りをした床と壁、部屋の中央部の一段低くなった構造などの特徴をもつ建物が折り重なるように発見されたことから、定期的に建物の更新(神殿更新)がされています。

2900年~2200年前
チャビン遺跡
世界遺産にも登録されているリマの北東部、アンデス山中の高度3200mにあるチャビン・デ・ワンタルを中心とした祭祀文化。それ以前の文化の集大成期と見られています。
石造りの大きな神殿や石のモニュメントを作ったことが特徴。土器は、表面を焼いて研磨することで黒い光沢を出しているのが特徴。

3000年~2000年前
クントゥル・ワシ
ペルーの北部海岸の町トルヒーヨ(Torjillo)の北東約110kmの海抜2300mの山の上に位置している。
山の四方に巨石を加工して積み上げた土留めの壁で、1ヘクタールほどの頂上部の平地を支えている神殿跡である。紀元前800年頃に、このあたりに大きな変化が生じて、クントゥル・ワシに大がかりな神殿が建設された。山の四方に3段の巨大な石壁を12メートルの高さでめぐらし、北東面には幅11メートルの正面階段を作った。こうして出来上がった大基壇の全体の広さは約145x120mである。大基壇の中心には半地下式の中央広場がありその広場を囲む4つの基壇が築かれたが、中央基壇と北基壇、東基壇は特にU字形に配された。中央基壇の背後には円形の半地下式広場も築かれた。

といった、さまざまな文化があります。このようにおよそ2000年前までは、神殿を中心にした文化が各地に起こっていますが、どれも明確な争いの記録が無いのが特徴といえます。
3:国家の誕生
2000年前
モチェ
アンデスの最初の国家と呼ばれます。太陽の神殿、月の神殿が有名。争いの記録が顕著です。
モチェの人々は、潅漑農業を行っていて数キロメートルにわたる運河が建設されることも珍しくなく、ラ・クンブレの運河と呼ばれるものは、110km以上にも達した。また数百立方メートルにも及ぶ貯水槽なども造られた。
栽培された植物は、とうもろこし、豆、ピーナッツ、ジャガイモおよびチューニョ(乾燥ジャガイモ)、唐辛子、タピオカの甘い種類、ヒョウタン、キュウリなどであり、多くは、土器にもかたどられている。また、とうもろこしからつくられるチチャ酒も造られていた。漁業、狩猟、採集、交易も行われ、狩猟の様子は土器にも描かれた。家畜のモルモットやアヒルが食糧だったこと、葦舟で漁を行ったことなどが知られている。

旧大陸と比べると、農耕や牧畜の始まりは大差がないですが、力の原理による国家の成立ははるかに遅い事に気がつきます。同様な国家は旧大陸でははるか5000年前に成立していますね。
この後は
ナスカ
ティワナク
チムー
そしてインカ
モチェ以降は
明らかに武力による権力争いが顕著です。
7000年前から、農耕や牧畜が始まり、このように、エジプトやメソポタミアと比較しても遜色ない次代に、大きな石造建築物、ピラミッドや神殿をつくりだした人々、なぜ5000年もの間武力による統合がなかったのか?
これが一番の疑問ですね。
旧大陸では、食料生産の増大 → 人口増加 → 緊張関係→贈与による緊張緩和→ 気象変動等による生存圧力増大→略奪集団の登場→ 戦争激化→力の原理による統合のように、農耕、牧畜の始まりからこのように推移しています。
なぜアンデスはこうした構造にならなかったのか?
アンデスでも食糧生産の増大(とうもろこしなど)があり、人口増加、緊張関係、贈与による緊張緩和があったのだと思います。さらにエルニーニョによる大きな気象変動も起こっています。
しかしモチェの登場までは、争いの歴史が無い。当然気象変動からの生存圧力の増加はあったはずなのに、規範が守られ続けたという事でしょうか。以前調べた際にも、アンデスには強く互恵の精神が残っている事を知りました。その規範性の強さが原因かもしれません。
又モチェ(アンデスでは北に位置する、つまり中央アメリカに近い)も、もしかして中央アメリカのオルメカからの影響かもしれません。
言い換えれば、本源性が残り続けたアンデス、
この点でも同じモンゴロイドを祖先とする日本との共通性を感じますね。

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