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鉄を制するものが天下を制す!

「鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
グラフで概観を捉えてみてください。
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地域だったことがわかります。
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この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めており、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀 [5]
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成) [6]
次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始していたとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一したのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。

東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播 [7]
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い

伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶 [8]
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
伽耶諸国の歴史(3)~半島内での進軍と衰退 [9]
最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう
日立金属HP [10]
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
日立金属HP [10]
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

鉄の自給が作り出した国家としての基盤 [11]

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