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武蔵国にも出雲系氏族が進出していた

前回は、「毛野国」について紹介しました。
押さえておくべきポイントは、以下の3点です。
①蝦夷とは東北日本の土着の縄文人に出雲系氏族が混血したもの。
②関東平野の北端部の利根川、太日川、毛野川の中流域は関東地方で最も早く、かつ継続的に出雲系氏族による開拓が行われた地である。
③毛野国への大和王権の勢力の進出は、3世紀から7世紀前半まで徐々に進められていった。非常にゆっくりであったのは、大和王権がまだ関東への進出にはあまり熱心ではなかったということと、毛野国では土着の出雲系氏族の勢力が強く、協調的にゆっくりとした進出とならざるを得なかった。

今回は、もう一つの国、「武蔵国」の様子を見ていきたいと思います。武蔵国 [1] 【引用、抜粋】

紀元前250年以降に西から内陸路(後の東山道)でやって来て定住していた出雲系の毛人の住む北関東の領域に、3世紀以降、海路(後の東海道)で南関東へやって来て鹿島灘まで達し、そこから転じて東から北関東へアプローチしてきた大和王権勢力という構図は、毛野国の南側、毛野川や利根川などが南関東海峡に注ぐ下流域の低湿地帯の東側の地域でも同様でした。

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大和王権勢力側から見た利根川下流域より東に広がる土地、そして伊勢崎や館林などの毛野国南部の南を東行する利根川中流域よりも南の土地は、後に「武蔵国」と呼ばれるようになるのですが、もともとは「无耶志国」や「无射志国」と表記されていました。この文字そのものには特に意味は無く単なる当て字であり、「むさし国」という音に意味があります。「むさし国」とは「むさしい国」「むさ苦しい国」という意味で、乱雑な感じの土地で、沼沢地や湿地が多いゴチャゴチャした土地を表します。

武蔵国の全体を見ると、西部には山岳地帯があり、中部には武蔵野台地があり、決して沼沢地や湿地ばかりというわけではないのですが、この「むさし」という地名は大和王権によって名づけられたものですから、ここでは大和王権側の視点が重要となります。大和王権はこの地に対しては東からアプローチするわけですから、武蔵国の場合は東部の印象がそのまま全体的な印象となり、それが国名になってしまったのです。実際、武蔵国の東部は古代においては利根川や荒川、入間川の下流が流れ、沼沢地や湿地がありながらその間に大宮台地や武蔵野台地東端の舌状地形が入り組み、まさにゴチャゴチャとして乱雑な、むさ苦しい土地でした。

東からやって来た大和王権の人々は、いきなりこのような乱雑な土地が現れたものですからガッカリして「むさし国」と名づけて開発は遠慮するようになりました。それよりも、その北部にある「毛野国」のほうが、毛人も多く住んでおり魅力的な土地でしたので、まずは「毛野国」への進出を優先したのでした。
ただ、その乱雑な土地の西側、武蔵国の中部や西部の山岳地や台地には、ちゃんと出雲系の毛人たちは住んでいたのですが、そこに至るにはその東の沼沢地や湿地を開拓しなければいけないわけで、それは大和王権勢力が関東へ進出し始めた3世紀ぐらいの技術力では大変に困難を伴うことであり敬遠されたのです。
そういった技術的問題に加えて、4世紀半ばから大和王権が朝鮮半島進出など西向きのベクトルを強めるようになったので、武蔵国への進出は進みませんでした。

大和王権が武蔵国へ本格的に進出するようになるのは7世紀後半になってからのことです。
それ以前の武蔵国には、毛野国と同様に、紀元前250年以降に信濃方面、そしてまた甲斐方面から出雲系氏族が進出してきていました。
また、それ以前から西部の山岳地帯の落葉広葉樹林帯には縄文の狩猟採集民たちが多く暮らしていた
と思われます。

武蔵野台地よりも東にある江戸湾北部には主要な河川だけでも利根川、太日川、荒川、入間川などが集中して流れ注ぎ、江戸湾は浦賀水道という狭い開口部で相模灘と繋がる極めて閉鎖的な海域であるために、江戸湾は干潟や潟湖となりやすく、これらの河川の下流部は水はけの悪い低湿地帯が広がっていました。
そこに上流部で大雨が降るとすぐにこの下流域は河川が氾濫して川の水が溢れ出して洪水となり、洪水が引くとこれらの河川の流路は変更していることがしばしばでした。
このように、洪水の被害が定期的に発生したうえに地形や水利がしょっちゅう変わるわけですから、農業を行うには困難が伴うわけで、これら河川の下流域である武蔵国東部や下総国北部は、そうした技術的問題が解決しないことには開発は容易ではなく、それゆえ大和王権としては洪水被害も比較的少なく河川流路も安定している北方の毛野国への進出のほうをまずは優先することになったのです。

現在の関東は、予想以上に、出雲系氏族の影響が強いようです。
むしろ、縄文人と出雲系氏族の混血した人たちが東国人と言ってもいいような気さえします。
その後、武蔵国は、7世紀に入り大量の高句麗人の手による開拓が行われていきます。
その様子は、次回、お伝えしたいと思います。

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