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弥生時代以降も継承され続けた縄文文化

新年、初の投稿です。今年もよろしくお願いします 😮
正月休みを利用して、本を読んでみました(まだ思い切り斜め読み状態…

日本の歴史01 縄文の生活誌 岡村道雄著 講談社学術文庫 [1]
縄文人の生活を物語風に記述する等、なかなか面白い試みの歴史書 だと直感し購入しました。考古学者の観点から様々な問題意識が感じられる本なので、いいネタ本になりそうです。(ちょっと微妙だなと思う部分もありましたが…
今日は、その中から「縄文的生活の継承」を紹介したいと思います。
(以下、部分的に抜粋)
後に古墳時代・古代(奈良・平安時代)・中世(鎌倉・室町時代)などと時代は区分されるが、各時代の基層に縄文的生活様式が徐々に減少するものの存続しつづけた。そしてその上に、稲作農耕文化と政治・経済・社会に代表される弥生的上層文化が発達していったと私は考えている…続く
byさーね
今年も、縄文と古代文明を探求していきましょう!
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若干長いですが、抜粋したいと思います(結構、読みやすい文章ですよ)

とりわけ、縄文時代以来の動植物質食料の捕獲・採取と、加工・保存の方法は、弥生時代以降も継続され、米は生業・食生活の両面でかならずしも高い割合を占めていたわけではなかった。海浜部には貝塚が形成され続け、イノシシやシカなどの動植物食料など、縄文時代と同様の鳥獣や魚介類も、いぜんとして獲得され、重要な食料であったことが、貝塚や低湿地遺跡に残されていた遺物によってあきらかになっている。弥生時代になって、いきなり生業や道具や社会が、がらっと変化したわけではなかったのである。

たとえば、磨製石斧や石包丁など、大陸系磨製石器と呼ばれるものも、その使用比率が高い九州でさえ、多くても全体の石器の三割程度であり、近畿地方の中心部でも約1割にすぎない。東北地方北部や九州地方南部にいたってはほとんど使用されておらず、部分的に稲作が導入された一部地域でも、縄文時代とまったく同様の打製石器が主要な道具であったという実態があきらかになっている。つまり、弥生時代の日本列島では、朝鮮半島以北ではすでに使用されなくなった多くの打製石器によって、生業含めた日常生活が事足りていた。

もちろん、鏃、槍や釣り針・銛頭、鋤・鍬の刃先などは後に鉄器化されるものの、採取や狩猟・漁撈の対象、技術、道具すべてが、基本的にはみごとに弥生時代に継承されている。

竪穴住居に住み、これまで弥生時代からはじまったと考えられてきた高床建物を含む掘立柱建物、溝や濠、あるいは木の実や繊維の水さらし、木器未製品の寝かし、飲料水の確保などに重要であった木組みの水場、土坑墓群からなる墓地など、集落内外の施設のほとんどは、縄文時代に完成していた。とうぜん、それに伴う物差しや測量、建築技術や土木工事の基本的な技術もである。植物質食料に多くを依存し、植物は煮て食べ、海産物を中心にしてときには生で食べるなど、日本食の原型もすでにできあがっていた。

編み物や布などの被服、装身具も、土器・石器・木器・漆器・骨角器などの自然物素材の道具とその基本的な製作技術も、水上交通や漁撈に用いた丸木舟も、すでに基本的なものを縄文人は知っていた。とくに豊かな森の木を用いた建材や木の道具を多用する伝統も存在した。

時代区分の認識では、「弥生時代に入り水田稲作の開始,支配闘争が繰り広げられる」という捉え方が強いですが、日本全体でみれば、実はそうでもないということになります。
日本人の可能性⇒本源の前では私権価値も無力 [4]という実感とも合います。
新年早々、やはり日本の原点:縄文に大きな可能性を感じました。最後は、著者の言葉で締めくくりたいと思います。
森羅万象に生命が宿り、山や森に神聖さを感じ、死しては魂は山に帰ると考え、物を大切にして役に立った物を感謝を込めてカミに送り、人びとを敬い、祭りで結束を深め楽しみ、火に神聖さや水とともに清めの力を信じるなど、精神生活の多くも縄文時代に形成され、今日に至るまで受け継がれてきた。
日常生活の原型は、縄文時代にその基本がすでに作られ継承されてきたのである。

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