- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

縄文土偶~恵みをもたらす母神信仰から神話へ

『古事記』や『日本書記』に記された神話の中には、遠く縄文時代にその淵源を見ることが出来る話が含まれているそうです。
Jyoumon_Doguu1.jpg   clip_image032.jpg   %E9%A1%94%E9%9D%A2%E5%9C%9F%E5%81%B6.jpg
これらの土偶に見られる母神信仰が神話に繋がっているのでないか、というお話です。
『日本人の女神信仰』(吉田敦彦著)より紹介します。
応援おねがいします!
Blog Ranking [1]にほんブログ村 歴史ブログへ [2]


●神話の事例
・イザナミは太古にイザナキといっしょに、一面の海だった下界に、まず最初の陸地となったオノロゴ島を作った。そしてその島の上でイザナキと結婚してわが国の国土の島を生み、それから多くの神々を生んだ。ところがその神生みの最中に、火の神のカグツチを生んだために火で陰部を焼かれ、大火傷を負って苦しみながら死んだと物語られている。
・『古事記』の神話では、オホゲツヒメという名の女神は「種々の味物」つまりいろいろな種類の美味しい食べものを体の中に持っていた。そしてそれらを鼻と口と尻からいくらでも出すことが出来た。この女神はあるとき、自分のところに食物を求めにやって来たスサノヲのために、体からどっさりいろいろな美味しいものを出し、それらを料理してスサノヲに食べさせようとした。
ところがそれを覗き見していたスサノヲは分泌したり排泄して出した汚いものを食べさせようとしていると思って、怒ってオホゲツヒメを殺してしまった。
そうすると無残な殺され方をしたオホゲツヒメの死体の頭からは、蚕が発生した。また両目からは稲が、両耳からは栗が、鼻からは小豆が、陰部からは麦が、尻からは大豆が、それぞれ生じたと物語られている。

・そっくりの性質を持った女神は『日本書紀』の神話には、ウケモチという名前で出てくる。
この女神もやはり体の中にさまざまな食べものを持っていて、それらを口からいくらでも吐き出すことができた
あるときツクヨミの訪問を受けたこの女神は、口から次々に、御飯と、いろいろな魚と、鳥や獣を掃き出した。それらをご馳走にし大きな台の上にどっさり盛り上げ、ツクヨミに食べさせようとした。
ツクヨミはすると、「口から吐いたものを食べさせるとは、なんという汚い無礼なことをするのか」と言って、顔色を変えて激怒した。そして剣を抜いてウケモチを斬り殺してしまった。
そうするとウケモチの死体の頭からは牛と馬が発生した。額からは栗が、眉毛からは蚕が、目からは稗が、そして陰部からは麦と大豆と小豆が、それぞれ発生したと物語られている。

体のいたるところから美味しい食べ物を生み出すとは、女神は非常に有り難い存在として捉えられていたのですね。
さて、このような神話が縄文時代のどこに通じるかというと、、、先の“土偶”なんですね。
左の写真は、縄文前期以前(10,000年前~5500年前頃)の土偶です。
中央の写真が、縄文中期以降(5500年前~)の土偶で、釣手土偶と呼ばれるものです。
右の写真は同じく中期以降の土偶で、顔面把手付き深鉢と呼ばれるものです。
釣手土偶は妊娠した女神の像に見える。発見される数が極めて少なく、ほぼ完全な形で出土されていることから、祭りなどの特別な時に使われる貴重な品として扱われていたと想像される。
中で火が燃やされ、火を自分の腹の中に胎児として宿し、その火を体を焼かれて苦しみながら、子の神として生み出していると思われる、、、
深鉢は、全体が妊娠した女神の姿を表わした像としての意味を持っていたと想像され、この土器の中で食物が料理されると、それは女神の体の中でさまざまな美味しいご馳走になる、、、

前期以前の土偶は、粗雑で形状も単純であるが、中期以降になると精巧で形もさまざまに複雑化して多様化、大型化している。さらにこの時期の土偶は、完全な形で発見されることがなく殆どが破壊された状態で出土している。しかも同じ場所から出土した破片を合わせても完全な形を再現できることが殆どないと言われている。
●芋の栽培により女神信仰へ
このような変化を吉田氏は、この時期に土偶が人々の生活の中で持っていた意味に、何か重大な変化があったことが想像されるとして、里芋などの芋の栽培が開始されたことと結びついて起こった変化ではないかと述べている。
縄文時代の人々にとっても、女神の聖像であった土偶を破片に分断するというやり方で無残に破壊することで、その女神の殺害を生々しく表現することは、明らかに格別に肝要な宗教的な意味を持っていたと想像できる。そしてその祭りによって女神を崇めながら、尊い体を傷め犠牲にして、自分たちを生かし養い、暮らしを支えてくれている、真に有り難い女神の恵みが豊かであるように懸命に祈願していたのだと思われる。
縄文時代の宗教の中心に位置を占めていたこの大女神は、生きた体からたえずふんだんに食物を出して、人々を養ってくれていると見なされていた。そしてその上に、体を焼かれながら人間の生活に不可欠な火を生み、また体を分断され殺されることで、無残な断片にされたその体からもなお、人間の暮らしに必要なありとあらゆる資源を豊かに発生させてくれると信じられていたのだ。

このような信仰を人々が持つようになったのは、この時期にわが国でおそらく里芋などの芋栽培が開始されたと想像できることと無関係ではないと思われる。なぜなら芋の栽培はこの当時にはもっぱら原始的な焼畑で行なわれていたに違いない。つまりこの時期におそらく人々の主食の位置を占めるようになったのではないかと思われる芋を土中にふんだんに生じさせるためにも、人々は大地母神の体にほかならぬ地面を猛烈な火で焼いた。それに伴って当時の人々はごく自然に、大地母神が火で体を焼かれて苦しみながら、ありとあらゆる資源を出産してくれるという信仰を、持つようになったのだと想像できるからだ。
縄文初期の土偶は、集団の人々にとってかけがえのない子を産む母胎に対する感謝の像であったかもしれません。それを母胎として、中期以降に栽培が始まると、今度は宝物を生み育てる母胎を、さまざまな必要な物や食料をも生み出す女神としての信仰へと高まっていったのかもしれません。そして、しばらく時を経て『古事記』や『日本書紀』などの神話にも登場していることから、長い間、女神信仰が受け継がれていったのかもしれません。

[3] [4] [5]