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日本語のルーツは古代朝鮮語だった

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明けましておめでとうございます
😀 くまなです。
今年もみんなでこのブログを盛り上げていきましょう!
みなさま、新年をいかがお過ごしでしょうか。
わたしはこのブログで書き初めならぬ“打ち初め”です(笑)
最近、このブログでは弥生から律令国家までの日本国家成立時期の追求が深まっています。天皇家やその渡来元としての朝鮮半島、そして記紀の神話の世界などです。(ユダヤも楽しみにしていますよ~・・・・・あっ、ユダヤもつながるか…つなげる?)
お正月は、実家に戻ったり、ついでにお墓参りをしたり、神社に初詣に行ったり、テレビでは皇居での一般参賀の様子を伝えたり、自分たちのルーツや天皇家というものをいつもより身近に感じる時期でもあります。
今回は、日本人や天皇家の朝鮮半島における故郷と呼べる地に関して、言葉(言語)の視点からアプローチした本があったので紹介します。学会等では無視され、一部ではいわゆるトンデモ扱いされている内容ですが、面白いと思ったのでご紹介します。
%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E003.jpg本のタイトルは「日本語のルーツは古代朝鮮語だった」、著者は朴炳植(パク・ビョングシク)氏。もともと実業家で、50代で言語学の道に足を踏み込み、1986年(56歳)の時に『ヤマト言葉の起源と古代朝鮮語』を発表されました。「日本語の起源は古代朝鮮語」であり、「奈良時代まで日本人はみな、古代朝鮮語を話していた」ことを明らかにしています。
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■日本語の源は韓国・慶尚道にある

すでに私には、日本語と韓国語をかたっぱしから比較していくなかで、漠然とはしているけれどもわかってきたこがあった。それは、まだ確信には至らなかったが、「ああ、日本語というのは韓国・慶尚道の方言なんだ」ということである。ひとつひとつの言葉を対象してみると、「どうも、これは慶尚道の方言だなあ」という思いが強くなったのである。

 慶尚道とは現在の朝鮮半島の東南部一体を指すのだが、この地方の方言は韓国のなかでも非常に特殊なことで有名で、実は、この特徴が日本語の特色に非常に似ていることに気づいたのである。
 たとえば、韓国語のなかでも慶尚道の方言は非常に省略が多いことで有名である。現代の韓国語で「ハンダヘド」という言葉がある。ところが、これを慶尚道では、「ハン」をとってしまって、「タヘド」と言ってしまう。もっと省略するときには「ハンダ」まで省略し、さらに「ヘド」もH→Kの音韻変化をきたして、「ケド」と言う。こういう言い方は慶尚道以外ではしない。韓国広しといえども、「ハンダヘド」を「ケド」などというのは慶尚道だけなのだ。それくらい省略するのである。

 ここまで言えば、もうお気づきのことと思う。この「ハンダヘド」の慶尚道方言は、そのまま日本語の「けど、だけど」となるのである。
 もっとわかりやすい例をあげよう。韓国語の命令語に「ハセヨ」、「ハシヨ」、「ハシラ」、「ハセ」というものがある。慶尚道方言の最大の特色は「ハ」音の脱落である、ということをもう一度思い起こしてほしい。これから「ハ」音をはずすとどうなるだろうか。それらは「セヨ」、「シヨ」、「シロ」、「セ」という日本語の命令形語尾になるではないか。

 また、日本語には「いわく」という言葉がある。「いわくつきの女」などと使う言葉である。何かかんばしくない前歴のある女性を指すのだが、原意は「話がついてまわる女」ということである。
 この「いわく」は慶尚道方言の「イバク」の濁音のとれたもので、日本ではこれを「話をする」という動詞、すなわち「曰く」を使うようになっているが、慶尚道方言では「イバク」という名詞として通用している。この「イバク」は、慶尚道地方独特のもので、朝鮮半島ではほかに例の無い言葉なのだ。
 このような事例が他にも重なって、私は「日本語というものは慶尚道の方言だ」という確信をもつようになったのである。

 こうして、慶尚道方言に注目しはじめた私は、現在の韓国の慶尚道地方の歴史にも関心をもつようになった。この地方について調べていくうちに、この地方には、はるか遠い昔、伽耶族という人々が住んでいたこと、そして、当時彼らが日本列島の開拓者として渡来し、原住民と和合しながら日本語を生み出す主体的勢力になっていったということがしだいに明らかになってきたのである。

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慶尚道とは慶尚北道と慶尚南道を合わせた地域で、とくに慶尚南道を中心とする地域は3世紀~6世紀に「伽耶」と呼ばれていた地域です。その時代は、まさに日本の支配民族が渡来した時期であることを考えると、日本へ渡来した人々や文化の中には「伽耶(加羅)」の要素がその言語とともに色濃く浸透している可能性があるということです。
Three_Kingdoms_of_Korea_Map.bmp(5世紀頃の朝鮮半島)
伽耶は、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見され、その勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土するなど古代日本との関係が深い。ヤマト朝廷の時代にはその勢力下であり、派遣された豪族が統治していました。6世紀中頃には新羅に滅ぼされ、その首都が金城(現在の慶尚北道慶州市)に置かれます。それで日本の奈良や京都のように歴史的な遺跡が多い。日本からも近い位置にあり、在日韓国人の方々の中にはこの慶尚道出身の方が多いそうです。また、韓国の歴代の大統領や高級官僚にも出身者が多いことで有名です。
参照:伽耶 [3] 新羅 [4]
著者の朴炳植氏が上記の本で展開されている科学的な根拠は「音韻変化法則」に基づく類似性の検証です。詳細は著書をご覧いただきたいのですが、コメント欄にリクエストがあれば、別記事でご紹介します。
さて、ちょっと深入りさせていただきます。
澤田洋太郎氏は「伽耶は日本のルーツ」(93年)の中で、考古学的視点から以下の根拠により日本人の原郷を伽耶地方だとしています。
弥生時代の北九州地方と伽耶地方の遺跡や発掘品を比較すると、
双方非常によく似ていて、若干、北九州の方が新しい。
環濠集落や銅剣、鏡、管玉の意匠が、そっくりであること。
双方で、そっくりの馬よろいが発見され、騎馬民族系譜であること。
墓制がそっくりで、石槨はあるが、棺はないという騎馬民族の特徴があること。
この騎馬民族的特長は、百済や新羅にはないこと。
参照:チュー太郎 [5]
また、澤田氏は、伽耶は天皇家及び物部氏の起源地であるとしています。上記サイトで紹介しています。
井沢元彦氏の『逆説の日本史~1古代黎明編』を紹介する天皇家のルーツは朝鮮半島南部にある [6]でも、

天皇家のルーツは朝鮮半島南部、任那(伽耶)、その源流の弁韓にある。任那(伽耶)は飛び地領ではなく、むしろ任那(伽耶)の方が本拠地だったのだ。それ以前の志賀島の金印「漢倭奴國王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国家の支配下にあったのではないか。

6~7世紀に新羅によって滅ぼされた任那(伽耶)、百済から大量の渡来人が支店である日本に亡命してきたが、彼らが侵略者に転じなかったのも、既に確立していた大和朝廷という同胞国家に迎え入れられたからであろう。彼らにとって日本が本拠地になったのだ。

日本の言葉や文化の基層部に朝鮮半島南部のそれが影響しているのは間違いなさそうです。

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