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前方後円墳は、出自の異なる古代部族の和合・合体の証し?

日本独特の古墳と言われる前方後円墳。
これが三世紀後半に突然畿内を中心につくられるようになり、それが次第に周辺地域に広がっていく。
まずは日本の古墳の分布を見てください。
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図版は“しまね遺跡探検 [2]”さん よりお借りしました。東北を除く日本中に前方後円墳が分布しているのが分かります。そして一部ですが方形の古墳も分布しています。


では前方後円墳の形はどのような墓式から生まれたのだろうか?
それ以前の弥生時代を概観してみると
「古墳の変遷」 [3]より

弥生時代後期、銅鐸や銅矛による青銅器祭祀は徐々に墳墓による祭祀へと代わる。特に出雲から北陸の日本海地域には、四隅が突出した独特の方丘墓があらわれる。また、吉備地方には対称に二つの突起を持つ墳墓が造られ、それぞれ地域の独自性をあらわしている。
その後畿内では、前方後円墳の祖形といえる形のものが造られはじめ、瀬戸内海沿いに西へと普及し、邪馬台国の時代には、それまで甕棺墓や隅円長方形の墳丘墓などが多かった北九州に達する。
一方、畿内から東、東海から関東にかけては前方後方墳の祖形があらわれて、他とは違った展開を見せることになる。

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図版も「古墳の変遷」 [3] よりお借りしました
以上の疑問として
★前方後円墳は、このもともとの円丘墓と方丘墓が合体したものだと想像されますが、何の為だろう?また、そもそもの円丘墓と方丘墓とはどこからきたのだろうか?
日本人および日本の誕生 [7]より

 わが列島に三世紀になって忽然と現れた前方後円墳とは何か。国家連合同士の大連合の成立である。前方後円墳は方墳と円墳の結合であるが、それぞれの起源が何かを物語っている。方墳の原型である方丘墓は、弥生初期の北九州に多くあり、その後東海以東の地域に広がった。円墳の原型である円丘墓は、瀬戸内沿岸に多くあり、その後近畿地方に広がった。朝鮮半島につながりを求めると、方丘墓の原型である方形周溝墓は朝鮮各地に見つかるが、円丘墓の方は、南西部(後ちの百済地域)および中国の江南に見つかる。
 さらに、以上とは別形式の四隅突起墳丘墓という変わったものがあるが、これは出雲と北陸(越)地域に特有の墳墓である。そしてその原型と見られるものが高句麗の故地にあるのだ。

整理すると
●円丘墓
中国南部→朝鮮南西部(百済の地)→日本の瀬戸内、近畿

※おおよそ倭人といわれる人々の分布と重なる。
●方丘墓
朝鮮各地→北九州→東海以東の各地へ

※この墓の朝鮮以前の出自は?後の新羅系の分布と重なるようにも見えるし、それとも任那・加羅系?
●四隅突起墳丘墓
高句麗→出雲・北陸、長野へ

※北方騎馬系?
さらに付け加えると、以下の経過も並行して見られること。
・西日本では、銅鐸文化圏+銅矛文化圏→前方後円墳圏(三世紀後半)
・東日本では、方丘墓が合体した前方後方墳圏(三世紀後半)がまずひろがり、その後前方後円墳(四世紀中頃)に塗りかわって行く
以上のように、日本における古墳の形状と分布は、弥生後期に大陸・半島の出自を持つ部族がやってきた傍証となるものです。それぞれの部族が、日本にやってきた段階では、それぞれの墓形式を守っていた。それらが合体して三世紀後半に近畿地方で前方後円墳に発展する。
これは、大きく見ると円形(倭人系)勢力と方形(新羅・加羅系?)勢力の合体・和合を示しているのではないだろうか?その合体勢力が三世紀後半、近畿地方に大和王朝を開いた。その時期それとは別の勢力(方形の合体勢力)が東日本(東海・関東)が存在した。
この時代は、少し前に卑弥呼の時代(240年頃、魏志倭人伝)を経た後であり、邪馬台国と狗奴国の合体=大和合→大和(ヤマト)王朝の成立を示しているのかもしれない。そしてその前方後円墳合体勢力が、東にも勢力をのばしていく。しかし関東の一部と出雲には根強く方形勢力(新羅と高句麗系?)が残り続ける。
参考:
「一冊で分かる古代史」 吉成繁幸
前方後円墳と前方後方墳 [8]
(by Hiroshi)

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