- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

「磐井の乱」新羅に乗せられたヤマトの反乱

0306a.jpg
6世紀、北九州で起こった「磐井の乱」を日本書記から素直に読み解くと、
ヤマト王権(継体)VS筑紫国(磐井)
  |            |
 百済       VS  新羅

という図式が浮かんできます。
しかし、
①当時、ヤマトによる北九州支配はどこまで行なわれていたのか。
 (支配関係か、並列関係か)
②継体天皇(とふたりの皇子≒一族)の滅亡と磐井の乱終焉の因果関係は?
③新羅の南加羅支配と磐井の乱の因果関係は?
といった、疑問は残ります。(書記には言及されていない)
最近では、磐井の乱はなかった、とする新説まで登場しています。
「おそらく事実は逆で、大和王朝が新羅と組んで倭国筑紫王朝の壊滅を謀ったものである。」
という記事をみつけたので紹介します。
まずは、ポチッとお願いします。
Blog Ranking [1]
にほんブログ村 歴史ブログへ [2]


以下引用はhttp://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/kicou08.htm [3]

百済本紀に、辛亥の歳(531年)に「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事があり、これに従って日本書紀は「継体天皇の崩御の年を、531年にしたが、ある本では甲寅の歳(534年)と書いてあって、よく判らない。後の世の人が明らかにするだろう」と記している。
日本書紀の編者は、百済本紀の「日本の天皇」という文字に、天皇は大和にしか存在しないと考えたために混乱しているのである。しかし大和王朝内に継体天皇と太子・皇子がともに死ぬような異変があった形跡はどこにもない。
百済本紀の「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事は、「磐井の乱」で滅んだ筑紫王家一族のことを言っているのだか、葛子は肥(火)君(ひのきみ)を外祖父に持つ庶子であり、磐井の後継者ではなかった。

磐井の乱の発端は、
父VS息子(外祖父)≒筑紫VS肥(火)国
である、としています。
そしてそこに乗じて、一気に筑紫王朝を滅亡しようとしたのがヤマト王権。
周辺の胸形(宗像)君も取り込み、葛子側につき、磐井を滅ぼそうとします。
が、しかし、そうは問屋が卸さない。

大和王朝の男大迹(おおど)王(継体天皇)は磐井を攻めるにあたって、将軍物部麁鹿火(もののべのあらかい)に、「長門より東は自分が取るので、筑紫より西は汝が取れ、賞罰なども勝手にしてよい」と言っている。
これは明らかに、最初から磐井(倭国筑紫王朝)の領土侵略を意図したものであり、毛野軍への応援軍派遣のための言葉ではない。しかし倭国筑紫王朝の壊滅を目論んだ男大迹(おおど)王と麁鹿火の思惑通りには、その後の事は進まなかった。
 葛子と肥国の勢力は、男大迹(おおど)王や麁鹿火が考えていた以上に強大でり、これを敵にして戦うことは無理があったし、胸形・水沼君らが筑紫王朝の壊滅までは同調しないこと。そして何より、磐井が生きて英彦山にいて葛子までもが居なくなれば、筑紫全民がゲリラ化し大和勢力に抵抗する恐れがあった。大和王朝の筑紫支配の思惑は、こうして頓挫することになった。

肥国はその後勢力を大きく拡大しており、姿を変えた筑紫王朝のその後ともいえます。
要するに、ヤマトによる筑紫王朝根絶→九州支配には至らなかった。

日本書紀によれば、筑紫君葛子は「父(磐井)の罪に連座して罰せられることを恐れ、糟屋の屯倉を献上して死罪を免れることを請うた」と記しているが、磐井はこの時期に、少なくとも九州の北半分を勢力下に置いていたことを「日本書紀」は記している。
 大和政権が「磐井の乱」以前に九州の統治を終えていたとするなら、たとえ葛子の死罪を許し、わずかに領地を与えることはあったとしても、他の支配地の奪還は当然に行わなければならないはずである。
これができず、わずかに糟屋(粕屋)の地を得るに止まったというのは、大和政権の九州支配は、少なくともこの時点では、まだ出来ていなかったことの証でもある。
 おそらく、糟屋の地は、筑紫君葛子から物部麁鹿火に与えられた論功行賞である。すなわち「磐井の乱」の真相は、新羅の外交戦略に乗せられ、筑紫王家の王位継承争いに乗じて、筑紫王朝の壊滅を目論んだ大和の反乱であったと考えるのが正しい。
 新羅は、「磐井の乱」以降、それまで倭国筑紫王朝の影響下にあった加羅諸国(任那)の併合に成功している。新羅の外交戦略(遠交近攻策)の勝利であった。

漁夫の利、とんびにあぶらげをさらわれた、といった言葉がありますが、
その後、新羅が任那を支配下に置いたのは事実であり、
筑紫王朝の弱体化が寄与しているのは間違いありません。
日本国内で起こった「磐井の乱」で最もトクしたのは朝鮮半島の新羅ー。
今も昔も、東洋も西洋も、同じことがくりかえされている、ということでしょうか。
うらら

[4] [5] [6]