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記紀でスサノオが乱暴者(悪者)扱いされているのは、なんで?

😀 くまなです
古事記・日本書紀が書かれた意図を考える上で、乱暴者(悪者)扱いされているスサノオの存在は重要ではないかと思われます。スサノオは地元出雲の伝承では英雄として描かれているからです。つまり、記紀では敢えて悪者に仕立てたのではないかということです。
susanoo.JPG
(スサノオを祀る総本社津島神社にあるスサノオの肖像画。リンク [1]よりお借りしました。)
スサノオは古事記では「建速須佐之男命」あるいは「須佐乃袁尊」、
日本書紀では「素盞嗚尊」あるいは「素戔嗚尊」と表記されている。
神様の名前であるが、古事記では単に「須佐(地名)の男」、
日本書紀の「素戔嗚尊」に至っては「素:何も持っていない」、「戔:少ない」、「鳴:泣く」、とかなり貶めている。他にも、

「素」は、ソまたはスと発音し人を表す語に付けて、「平凡である。みすぼらしい」など軽蔑の意を添え、「素町人」「素浪人」など。「戔」は、音読みでは「サン」・「ザン」・「セン」で、「きずつける」、「そこなう」という意味である。「鳴」は、鳴く(泣く)こと、吠えること。またその声を云う。つまり、「きずつき、みすぼらしく、泣く人」という意味16)になる。如何に侮辱(ぶじょく)した名称かがわかる。

さらに、記紀では、母イザナミのいる根の国に行きたいと仕事もせず泣き叫ぶので高天原を追放され、お別れを言いに姉アマテラスの元を訪れたのに、乱暴を繰り返し追放されます。怠け者で粗暴な神様として描かれています。
では、実際のスサノオはどのような人物だったのでしょうか。
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■スサノオの実像

スサノオは北方系モンゴリアンで、古代の大陸や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が、出雲(島根県東部宍道湖周辺)に移住した子孫で、出雲沼田の豪族・布都の子としてBC188年頃に出雲で生まれたとみられる。
 そして18歳頃に、出雲で横暴を極めていた清田(現・雲南市大東町清田)の製鉄富豪・オロチを倒し、虐められていた稲田(現・仁多郡奥出雲町稲田)の娘・櫛稲田姫を助けて娶り、須賀(現・雲南市大東町須賀)の地に館を構えた。
(中略)
スサノオは、父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技術を人々に指導したことから、庶民の生活安定に大きく寄与した。周辺部族や住民がスサノオの人柄や技術に期待をかけ、次々と出雲国に参加、そのうち出雲国王に推された。出雲風土記は、「須佐之男は仁慈の名君だった」と記している。
 スサノオは、出雲・隠岐を百八十六部に分け、それぞれに族長を置いて統治させ、陰暦十月には族長会議をひらいていたという。出雲国の統治に合議制を重んじたことが伺える。今流にいえば民主政治の始まりである。
 この月を出雲では神在月と呼び、出雲大社では十一日から七日間、神有祭・神在祭が行なわれる名残らしい。また出雲・隠岐以外の地では、族長(神)が不在になるので、この月を神無月と呼ぶようになったと云う。

和国の古代史 [4]」の「建国の始祖王須佐之男命 [5]」の「建国の偉業 [6]」より
では、なぜ記紀ではスサノオを乱暴者(悪者)扱いしたのでしょうか。
■旧支配層(物部)の存在を否定し、力を封鎖
それは、記紀を編纂した天武あるいは天智天皇の勢力が日本を支配する以前に日本を支配していた土着の豪族が物部氏であり、その祖がスサノオ(一族)であったからです。これは、神社伝承学により明らかにされています。
物部氏は7世紀に蘇我氏に滅ぼされますが、一族や支援豪族は全国に存在します。その勢力は簡単には制圧できるものではありません。のちの政権(とくに藤原氏)は、その力を封鎖するため物部氏を歴史から抹殺(共認支配)し、そのシンボルであるスサノオを否定的に記述したのです。
■隠蔽・改竄された物部氏

和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。
 だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。

松岡正剛の千夜千冊 [7]より
スサノオは物部氏とつながっているのか?
■スサノオの子ニギハヤヒを祖とする物部氏

スサノオは、西暦122年ごろ、出雲国沼田郷で生まれた。スサノオが20歳ごろ、出雲第一の豪族・ヤマタノオロチを討ち倒し、35歳ごろには、出雲で頭角を現す。やがて出雲を統一したスサノオは、西暦173年ごろには九州遠征を決行し、これを平定、アマテラス (『魏志倭人伝』のヒミコ)と出会い、両者はここで同盟関係となる。
 いっぽう、スサノオの第五子・ニギハヤヒは、西暦150~151年ごろの生まれで、20歳をすぎたころスサノオとともに九州に遠征し、183年ごろ、スサノオの命で大和に向かった。
 ニギハヤヒは、それまで大和を支配していたナガスネヒコをたたかわずして臣下におさめ、その妹の三炊屋媛を娶る。さらにニギハヤヒは休む間もなく、瀬戸内沿岸を次々に攻略、出雲王朝の基礎を築いたのである。
(中略)
 西暦230年ごろ、九州王朝は大和の出雲王朝に、あるひとつの提案をもち込んだ。両国を合併させようという大同団結を提唱したのである。幸い出雲王朝の相続人は、「伊須気依姫」という女子、かたや九州王朝の相続人は、ヒミコの孫で、末子の「伊波礼彦」(のちの神武天皇)、どちらも正統な相続人であった。
 ここに、両朝は合併に合意した。これが、『日本書紀』に記された神武東遷の真相であったと原田氏はいう。そして新王朝誕生と同時に、両朝は重大な取り決めを交わした。
 それは、代々の天皇は九州王朝の男子とし、その正妃は出雲王朝の女子から選ぶこと、そしてその正妃の親族が天皇を補佐し、政治の実験を握る、というものであった。
 このように、出雲・九州両朝の合併によって成立したのが大和朝廷であり、ニギハヤヒの末裔・物部氏が衰弱した七世紀、出雲王朝の実像は天皇家の手によって抹殺されてしまったと、原田氏は説くのである。」
(中略)
結局、スサノオを父に持つニギハヤヒは、大和の大王であって、大和朝廷の祖であり、その死後、神武天皇を大和に迎えた。そして、ニギハヤヒの子孫が「物部氏」であることになる。

つまり、日本を最初に支配したのがスサノオとその子ニギハヤヒであり、その基盤のもとに反映したのが物部氏であるということです。
日本書紀には、大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたことや、大王家は物部氏の力を借りて大和に政権を確立できたことなどを記している。万系一世を外に示したい天皇家にとって、自分達より前に別系統の「王」がいては困るわけで、そのあってはならない存在が「物部氏」であり、その象徴がスサノオだったわけです。
物部氏ゆかりの神社は全国に分布しています。その勢力が全国に渡っていたことがうかがい知れます。物部氏ゆかりの神社と地図 [8]参照
古代日本においてそれだけの勢力をもった物部氏とは何者なのでしょうか?
これは次回にしましょう。

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