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メソポタミアはどのように統合されていたの?~中央集権の始まり~

Posted By mituko On 2008年10月15日 @ 9:48 PM In Ⅵメソポタミア文明 | 4 Comments

こんばんは~
メソポタミアの人々がどのように生活していたのか?
神の位置づけと統治の方法はどんな関係があるのか [1]に続いて、王の統治の様子を見て いきたいと思います。
福岡教育大学城山西洋史 1998年卒業論文 小林のぞみさん「古代メソポタミアの社会」 [2]から、引用、要約させてもらいます
まずは、大きな時代の動きを押さえましょう :D
ウバイト期        灌漑という新しい生産技術の成功
(前5000~3500年) 
ウルク期        都市文明が開花
(前3500~3100年)    神殿を中核とする組織として都市国家が誕生
            王権の成立
 初期王朝時代    都市国家が覇権や領土問題で激しく争う
 (前2900~2371年) 
 前2371~2347年   ウンマ市国王ルーガルザッグゲジによりシュメール地方統一
 古アッカド時代   サルゴン王がアッカドとシュメールを統合
 (前2371~2230年)
 グティ時代     メソポタミア東北方から侵入したグディ人による支配
 (前2230~2120年)  前期は混乱→ウルクとラガシュに独立政権が誕生
ウル第三王朝     グディ人によるメソポタミア支配に留めを刺したウトゥ・ヘガル
(前2113~2007年)   の下で将軍であったウル・ナンムがウルに都をおいて創設
★アムル人が両河地方の南と北に二つの独立王国を建設
 北方のアッカドに、イシンを首都とするイシン王朝(前2017~1794年)
 南方には、ラルサを首都とするラルサ王朝(前2025~1763年)
★バビロンのハンムラピのもとで、改めて武力統一される
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●社会正義の擁護者としての王
 メソポタミア初の法典とされているウル=ナンム法典の前文には、「悪業と暴虐と悲嘆を除き、正義を国土に確立した」とあり、法典は「社会正義の擁護者」としての王の機能を表現したものといえる。また、ウル第三王朝時代には、裁判文書や契約文書における誓約の言葉として「王の名において誓う」という誓約の文言が定型化します。このようなことから、人間社会における正義・公正の監視が王の職務であったことが推測されます。
そのほか、王讃歌や『シュメール王名表』の存在から、シュメールの王権はこの時代に、社会正義の擁護者としての側面を強調して、イデオロギー的に完成の域に達した言えそうです。
●メソポタミアの政治体制
○神殿経済は王室経済に従属

都市国家の意味は地域の灌漑設備の充実にあった。都市国家の成立まもないころは、その中核として神殿が存在していた。しかし、長引く戦争の中で、軍事権、外交権などの世俗的機能を握る王が出現し、それまでの神殿経済に対抗するものとしての王室経済が誕生した。そして、アッカド王朝のサルゴンの時代には、王室経済が優位に立っていた。ウル第三王朝に入り、個々の「灌漑州」つまり基本的な政治単位としての都市国家を制圧したことによって、支配者とその「宮廷」は、地域地域の神官的な君侯に対して強力な影響力を行使できる立場を手に入れた。神殿経済は王室経済に従属することになる。個々の都市のエンシは、権力を委任された長官でしかなくなってしまった。

○中央集権体制の整備=冨の集中

王は、自分の権力を支え、また最高位の領主として自らの主張を貫くために、全土の君主として自分の自由になるあらゆる経済外的手段を利用した。前述したイデオロギーの整備がそれである。それらの手段のおかげで、王は、住民に運河や要塞の建設のような大々的な労働を強いたり、租税を徴収したりできた。また王は、自分の大経営そのものにも、自らが支配する強大な領土の経済的基盤を駆使した。遠隔地貿易においても王は独占権をもっていた。この大経営が機能するように作業を調整・監督するために、また租税の取り立てを強化するために、膨大な官僚機構が必要であった。
イデオロギーと中央集権的官僚制の整備により、ウルの宮廷には王室経済や租税、貿易の利潤からの富が流入した。しかし一方で、専制的な中央権力ができると、住民への搾取と抑圧も強まっていった。こうした中央集権国家は、広域にわたる灌漑体系を作る労働の組織や指揮、農耕の可能な土地の拡大等の、個々の都市国家の力では成し遂げることのできない課題を達成した。

○でも、ウル第三王朝が長く続かなかったのはなんで?

膨大な官僚、職人、労働者を抱え、絶えず厳しい監督を必要とする王室大経済は、領域国家の内部にあっては、もっと狭い領土に限られていたシュメール都市国家の枠内におけるほど、能率のよいものではなかったのである。そのほか、発展しつつある私的所有は廃止も決定的抑制もされなかった。また、それ以上に、地域による貧富の差が少なからず明白になってくる。そこに加えて、東のエラム人や西のマルトゥ人(アッカド語ではアムル人)といった外部からの圧力がますます強まってきた。とくにアムル人は、バビロニアへの侵入に徐々に成功していった。
参考文献一覧 [5]

実際の生産力(=灌漑施設建設力)や経済力(武力もかな?)と観念(イデオロギー)が両輪で、中央集権体制が成り立っていたのですね。まだまだ初期の段階ですが、私権社会の普遍的な統合形態が、早くも伺えます。
では、その中央集権をぐらつかせる私的所有や貧富の差(これらは次に控える商人たちの登場にも関係しそうなキーワードですね)。次回はその辺りを・・・


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[1] 神の位置づけと統治の方法はどんな関係があるのか: http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/02/000135.html

[2] 福岡教育大学城山西洋史 1998年卒業論文 小林のぞみさん「古代メソポタミアの社会」: http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama98/kby.htm

[3] Image: http://blog.with2.net/link.php?538666

[4] Image: http://history.blogmura.com/in/023841.html

[5] 参考文献一覧: http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama98/kbysB.htm

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