- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

古代オリエントの交易 海上編

Posted By staff On 2008年8月21日 @ 11:21 PM In Ⅵメソポタミア文明 | 7 Comments

こんにちわちわわです。
古代オリエントの交易編!今回は海上交易に焦点をあててみます。
 アッカド王朝がメソポタミアを統一した前2300年頃から、「ディルムン」「マガン」「メルッハ」という国の名前がさまざまな文書に登場するようになります。
 たとえば、初代サルゴン王の碑文には「メルッハの船、マガンの船、ディルムンの船をアッカドの波止場に停泊させた」とあります。「ディルムンの舟をその土地まで動かした、マガンの舟に天高く荷を積んだ」「メルッハから金、銀、銅、紅玉髄、黒檀などがもたらされた」などと記した文献もあります。
indus.gif
 3つの国のうち、ディルムンは、「下の海」とよばれたペルシア湾に浮かぶバーレーン島。マガンはさらに東、現在のアラブ首長国連邦やオマーンにあった諸都市。ここでは銅を産出していました。メソポタミアからの距離は、ディルムンは700km、マガンまでは1300kmもあります。
 そしてメルッハ国は、ペルシア湾を出てさらに東、インダス川流域やアラビア海沿岸の都市だとみられています。メソポタミアからは実に3000kmも離れています。 
はたして、当時の船や航海術で、これほどの遠距離航行が行えたのでしょうか?
おもしろい実験をした人がいます。その前に↓↓ぽちっと!
Blog Ranking [1]にほんブログ村 歴史ブログへ [2]


地球人の歴史  6.海を越えて [3] より引用します。
■4000年前の遠洋航海
 1977年、興味深い実験が行われた。ノルウェーの人類学者ヘイエルダールが、円筒図像をもとに当時の船を再現し、航海に出たのである。メソポタミアの湿地帯に生えている葦(あし)でつくった全長18mの帆船だった。この船は、ティグリス・ユーフラテス川の合流点からペルシア湾を経てインダス河口に到達、その後アラビア海を横断して紅海の入り口までたどり着いた。全行程6800km、所要日数は143日だった。
 4000年以上前の商人たちも、このような航海を行っていたことが想像される。
■交易が生んだ都市群
 一般に、陸路より海路のほうが大量・迅速・安全・安価に輸送できる。家畜の飼料を運んだり、宿所で荷物を積みおろしたり、関所のたびに税をとられることもない。長大な交通路を整備・管理する必要がなく、港湾など「点」を掌握すればことたりるので、支配者にとっても好都合である。
 前3000~2000年頃の船は大きくても全長20m、大海原に出ることはできず、つねに陸地を見ながら航行するしかなかった。それでも、ロバに頼るしかなかった陸上輸送に比べれば、船便のメリットははるかに大きかった。
 穀物以外のすべてが不足しているメソポタミアの諸国は、はるか中央アジアからもスズなどをとりよせていたが、前2500年頃からこれらの物資はインダス川~アラビア海~ペルシア湾という航路によって運ばれるようになったらしい。以来、イラン高原経由の陸路は衰退し、ペルシア湾岸のディルムンやマガンがにぎわったのだという。
■海上王国
 メソポタミアの人々が「上の海」とよんだ地中海は、冬こそひどく荒れるものの、夏は高気圧におおわれ晴天が続くため、航海に適した海である。前3000年頃にはすでに、シリアから木材を、エジプトから麻やパピルス(葦から作る紙の一種)を運ぶ船が往復していた。
 同じ頃、無数の島々が散らばるエーゲ海でも、人々はそれぞれの島の物産を交換して暮らしていた。その中から、クレタ島が前2000年頃から急速に発展してきた。都とされるクノッソスは最盛期には7~8万もの人口をかかえる世界最大級の都市に成長し、1000以上もの部屋が入り組む巨大な王宮が建てられた。
 エーゲ海諸島よりも大きいとはいえ、山がちな島国にすぎないクレタにこれほどの繁栄をもたらしたのは、ギリシア・エジプト・小アジア・シリアの中央に位置するという地の利だった。クレタの商人は、オリーブ油、ワイン、羊毛、木材などの特産品を売りさばいたほか、キプロスの銅と西アジアのスズからつくった青銅器を輸出する「加工貿易」や、シリア産の杉をエジプトに運ぶ「中継貿易」も手がけていた。クレタこそ、史上初の海上王国といえるだろう。
■海賊たちの海
 陸路より安全ではあるが、海路にも悪天候などの危険は当然つきまとう。なかでも、最大の脅威は「海賊」であった。
 海賊の起源は、船や交易と同じくらい古い。「戦争と交易と海賊は三位一体で分けられない」といってもよい。交易は駆け引きであり、力関係がものをいう。軍事力で優位にあれば、タダで貢がせることもできる。また、力ずくで奪い取る場合もでてくる。これを、私貿易では「海賊」、国と国との間では「戦争」とよぶ。すなわち、海はつねに、大小さまざまの集団が財力・武力・政治力を駆使する闘いの空間だったのである。
 伝承によれば、クレタのミノス王は海軍を組織して海賊を一掃したとある。ただ、クレタ人は概して平和的な交易で勢力を拡げたようである。そのことは、宮殿に城壁がないことなどからもうかがえる。
 それに対し、ミケーネを中心に台頭してきたギリシア人はきわめて戦闘的で、軍事力のもつ意味をよく理解していた。彼らはおそらく、海洋国クレタに挑戦する手段として海賊行為を採用していたと思われる。複雑な海岸線と小島嶼からなるエーゲ海は、待ち伏せに最適な「海賊の天国」だったのである。前1400年頃、執拗な攻撃を受けたクレタはついにギリシア人の軍門に降った。新興国が海上覇権国に対し通商破壊戦で挑むという図式のはしりといえるだろうか。
 ところが、覇権を奪ったギリシア人諸王国もまた、前1200年頃にあらわれた未曾有の海賊集団に襲われてことごとく崩壊してしまうのである。
 この破壊者は「海の民」とよばれているが、どのような集団かはっきりしない。おそらく、気候の悪化によって南下してきた人々や、それによって玉突き式に海へと押し出された難民だろう。
 その後、「海の民」は、小アジアに大勢力を誇っていたヒッタイト王国をも滅ぼした。エジプトはかろうじて撃退に成功したが、国力をすり減らし没落してしまう。
■商業を発明した民
 多くの大国や大都市が滅びた一方、鉄の普及によって、それまで辺境とされていた地域で鉱山開発や金属工芸、農業の発展などがみられるようになった。新しい国や都市が生まれ、交易ルートも再編成された。こうした動きの中心となり、前12世紀から数百年間、地中海の主役として君臨したのがフェニキア人である。
 フェニキア人とは、レバノン沿岸にビブロス、テュロス、シドンなどの都市をつくって住んでいた人々である。おそらく、この地の先住民に「海の民」が合流してできた集団だろう。レバノン山脈によって内陸への発展は阻まれていたが、ここでとれる最高級の杉で船を造り、海に乗り出していった。
 フェニキア人の船にはさまざまな新技術が盛り込まれていた。輸送用の帆船は、帆の向きを変えることができ、順風でなくても航行できた。軍船は上下2段に数十人のこぎ手を配したガレー船で、快速かつ運動性にすぐれ、するどい船首で敵に体当たりした。強大な輸送力と海軍力が、フェニキアの最大の武器であった。
 驚くべきは、彼らの活動範囲である。東は南インド・セイロン島、西はイベリア半島、北はブリテン島・バルト海、南はアフリカのギニア湾沿岸にまで達しているのである。
 フェニキア人の原動力は、ある地域で仕入れた品物を別の場所へ運び、高く売ることで得られる利潤であった。「フェニキア人は商業を発明した」というプリニウス(ローマの学者)の言は的を射ているといえよう。
 わずか22の子音字で構成されるフェニキア人の文字は、彼らが商業に特化していたことを間接的に示している。書記の独占物だった楔形文字やヒエログリフに対し、フェニキア文字がより多くの人々が使えるように進化してきたことは明らかである。商売には簿記が欠かせないから、必要に応じてこのような文字が生まれたともいえるし、簡便な文字が商業を促進したともいえる。
 フェニキア文字は、ギリシアをはじめとするヨーロッパ~西アジアの多くの地域に伝わり、形を変えながら取り入れられた。これが、アルファベット文字体系である


Article printed from 縄文と古代文明を探求しよう!: http://web.joumon.jp.net/blog

URL to article: http://web.joumon.jp.net/blog/2008/08/579.html

URLs in this post:

[1] Image: http://blog.with2.net/link.php?538666

[2] Image: http://history.blogmura.com/

[3] 地球人の歴史  6.海を越えて: http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history06.html

Copyright © 2014 縄文と古代文明を探求しよう!. All rights reserved.