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シュメールの余剰穀物、どこと交易してた?

ちわわさんの7月8日の記事 [1]で、シュメールが灌漑技術で手に入れた余剰穀物 によって発展した様子がわかりました 😀
この地域は降水量 は少ないのですが、 温暖 なため用水が確保されれば驚くほどの収量を上げることが出来たのです
このように、水をコントロールしたことで手に入れた大量の余剰穀物を手に、シュメール人は交易を始めます。
さて、その大量の余剰穀物、一体どこでどのようなものと交換されていたのでしょう
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元来シュメールには地下資源が瀝青しかない。肥沃な泥・水・太陽、それがすべてである。にも関わらず先に延べた「灌漑」という技術によって生活に多大な余剰=富を産み出した。彼らはその余剰食料を持って各地に散らばり壮大な交易を行ったのである。(史料11) ウガリト・ビブロスからはレバノン杉、タウロス山脈からは金、銅はオマーン半島やキプロスから、紅玉髄はインダスから、中でも当時アフガニスタン最北のバダクシャン渓谷の鉱脈からしか産出が確認できないラピス・ラズリも多量に交易されているのが発掘品などからわかる。ウル・アフガニスタン間は3000kmもあるのにだ。時に略奪により入手される事もあったらしいが、多くはメソポタミア産の穀物・織物・装飾品などと正当に取り引きされた。交通手段は川や海上の場合は船、陸上の場合はロバが使用されていた。
シュメール「文明の曙」 [4]

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   <ラピス・ラズリ>           <紅玉髄>
シュメールの穀物は、時には3000kmも離れた場所と交易され、木材 や宝石 など様々なものと取引される壮大な交易ネットワークだったことがわかりますね。
中でも乾燥地帯であるシュメールにとって木材は重要な輸入品でした

シュメール人が最古の都市文明を誕生させたユーフラテス川の下流域は、もともと森の少ない所である。ヤナギやポプラ、それにナツメヤシが存在した程度で、大きな森を探すには、ユーフラテス川の東のザクロス山中か、ユーフラテス川中・上流域か地中海沿岸のレバノン山脈やアマノス山脈、それにアナトリア高原の南部まで行かなければならない。(中略)
古代メソポタミアでは、神殿を建てるにも、交易の船を建造するにも、青銅器や土器を焼くにも、そして日常のパンを焼くにも木は必要だった。
メソポタミアの人々はこれらに使う木材を求めて遠くアラビア湾を船で航行し、オマーンのアフダル山脈や、インダス文明の発展したインドまで出かけていた。インダス文明の町ロタールからは、ビーズなどとともに木材もメソポタミアに輸出されていたのである。(中略)
現代から見れば大変だと思うが、当時はそれほどの苦労をしても、木材を手に入れる必要があったのである。
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灌漑技術を手に入れ、自分達が消費する以上の穀物を作り、交易で欲しいものを手に入れる
シュメールは大量の余剰穀物を手に、これだけの発展を遂げたのですね~ 😀

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