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弥生・古墳時代頃までの朝鮮の概況

こんばんは。
最近、弥生・古墳時代についてのエントリーが増えてきていますが、朝鮮から日本に渡って来た人達を知る上で、同時代までの朝鮮の歴史について、少し調べて紹介しようと思います。
■考古学上の時代
●前期旧石器時代
出土品の年代測定から、最も古い旧石器時代の発見は、約30万年前の全谷里(チョンゴンニ)遺跡といわれています。しかし、さらに遡る55万年前の石器が万水里(マンスリ)遺跡から見つかっています。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071124/acd0711242200003-n1.htm [1]
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<発見された石器>
上記記事にも書かれていますが、推定年代が正しいとすると、北京原人と同時代ということになり、かなり古い時代から朝鮮半島に人類が進出していたことになります。この時代に日本が大陸と陸続きではなくなるのが、およそ50万年前だから、食料となる大型動物等を追いかけて、陸続きの日本列島にもやってきた可能性もありそうです。
●後期旧石器時代
3万5000千年前~1万年前までの期間。現代の人類に繋がる人類が登場してきた時代。この時代の遺跡は朝鮮半島でも多く存在するようです。
様々な石器が発見されているが、特に日本との関係で言うと、日本では主に北で見られる湧別技法と同じ技法で作られた細石刀が、約1万4000年前頃、朝鮮半島でも発見されています。
 
湧別技法で作られた替え刃式の石器とは
 北海道が完全な島となる以前,14000年ほど前になると,細石刃とよばれる,新しい石
器が,作られるようになります。
 細石刃とは,長さ3~4cm,幅5mmほどの,剃刀のような鋭い刃の小石器で,木の棒や
動物の骨で作った軸に1列に埋め込み,ひとつの大きな刃とするもです。
 細石刃が作られるようになると,同じ大きさの原石から沢山の細石刃を作ることができ,と
ても効率がよくなりました。
 それに,それまでの石器は,刃こぼれすると,使えなくなるが,細石刃だと,刃こぼれした
部分だけ新しいのと取りかえれるから,また使える。
 細石刃の製作は,西日本でもはじまったが,中心は北海道だった。北海道には,石器の原材
料となる黒曜石が豊富にあったからだと考えられます。
 特に湧別川流域では,高度な細石刃製作の技術が発達し,これを湧別技法という。
 湧別技法とは,まず長さ10cmの黒曜石を,木の葉や鰹節のような形にととのえる。それ
を縦の方向に2つに割り,船底型の石核を作る。それを薄く打ち割って,いくつもの細石刃を
作りだすというものです。

 
http://x.iwa.hokkyodai.ac.jp/~kamisibu/katudo/kyousitu/6/gaku/akih/ainu_j.html#05 [2]
 
 
さらには、朝鮮半島の南内陸部の谷沿いにある古礼里遺跡からは、剥片尖頭器が発見されている。同じものは日本の九州で集中して発見されていることから、朝鮮半島から渡った石器であると推定されています。
 
 
 噴火後の九州では,新たな石器として剥片尖頭器という槍状の石器が登場します。南九州でも近年数多くの遺跡からこの剥片尖頭器が出土しており,前山遺跡からも相当数出土しています。そしてこの石器は,朝鮮半島にそのルーツが求められるともいわれ「海を渡った剥片尖頭器」とも呼ばれています。
シラスの上層から出土する剥片尖頭器は,海水面が低くなり幅が狭くなったとはいえ海流が激しく荒ぶる朝鮮海峡を,旧石器人達が勇敢に丸木舟を操って行き来したあかしなのでしょうか。

http://www.jomon-no-mori.jp/no25.htm [3]
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<前山遺跡の剥片尖頭器>
約2万5000年前、朝鮮半島から剥片尖頭器の制作技術を持った人々が、九州や本州西端にやってきて伝えたもものと考えられています。
次は、古朝鮮についてです。
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■古朝鮮
 
伝説上、初めて登場したのは、「檀君朝鮮」です。檀君は朝鮮民族の始祖として信じられています。
1280年代に撰述された「三国遺事」と「帝王龍起」に記述されているのが、記録上での、最初の登場のようです。帝釈天の子供の垣雄が地上に降り立ち、人間になることを望んだ熊の願いを聞き入れ、人間の女になった、その女との間に生まれた子供が檀君といわれています。(BC2333年開国とされている)
 
 
次に、朝鮮として記録に登場したのは「箕氏朝鮮」です。この国は中国の殷滅亡時に最後の王の親戚の箕氏が朝鮮で開いた国と言われています。(BC11世紀頃)
 
箕氏朝鮮については、過去のエントリーに紹介されていますので、再掲します。
スサノオは、箕子朝鮮から逃げ延びた王族の一派だった!? [6]
 
  
箕子朝鮮(きしちょうせん、- 紀元前194年)とは、殷の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。所謂古朝鮮の一つで、韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の平壌)。『魏志』『魏略』などにやや具体的な記述が見えるものの、未だに考古学的な裏付けが無く、実在性は乏しいと考えられている。秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準、)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、燕王廬綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し、王権を奪取して衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
 
ウィキペディア [7]
 
 
その後、中国の戦国時代末期、漢の封国であった燕を領有していたのを、取り潰しの動きに対し、朝鮮へ亡命し、打ち立てた国が、「衛氏朝鮮」です。(BC195)
 
しかし、その後、漢の武帝によって、建国後80年あまりの後、滅ぼされることになります。
 
 
■楽浪郡から三国時代
  
武帝が朝鮮半島を支配する為に設置した、4郡(楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡)によって、朝鮮半島を直接支配するようになります。(BC108)
 
 
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 <4郡> [8]
 
 
しかし、漢から遠方でありその維持が困難であったと考えられる臨屯郡、真番郡が最初に廃止・統合されたのはじめに、高句麗の勢力が増すにつれて、玄菟郡が後退を繰り返すのちに廃止され、さらに高句麗の侵攻によって、ついに313年ごろには、楽浪郡を手放し、朝鮮半島から撤退することになります。これによって、朝鮮半島の北側を高句麗が支配するようになります。
 
一方、朝鮮半島の南側ですが、北方系の民族である高句麗に対して、南方系の韓族が支配していました。
その中で、馬韓50余国の一つであった伯済国から成長し主に馬韓地域を支配した百済と、辰韓12国の一つであった斯蘆国から成長した新羅と、弁韓の小国家郡であった伽耶諸国に分かれます。伽耶諸国は製鉄技術にすぐれており、鉄製甲冑、馬具、環頭太刀などを交易しており、日本も鉄製品を輸入する代わりに、軍事的協力が行われたようですし、伽耶諸国の中には、当時の日本(倭)の勢力が及んだ国もあったといわれています。
 
 
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 <韓> [9]
 
 
以降、高句麗、百済、新羅の3国時代までが、詳しく紹介されているHPがあるので、紹介させていただきます。
 
古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン [10] より
  
  
▼百済と高句麗
 
 さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。
 
 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。
 
 次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。
 
 
▼新羅と加羅
 
 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。
 
 後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)
 
 その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。

 
  
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 <三国時代>
 
 
このように、朝鮮の歴史を見ていくと、大きく、北方系の民族(ツングース)と南方系の韓族とによって、形作られた民族であることが伺えます。
ちょうど、日本が、縄文系と弥生系によって形作られたのと、似たような関係のようですね。
 
ところで、もっとも日本と関係が深い国く影響を与えた国が、百済であると思いますが、百済が日本との関係を強化していった背景には、高句麗の存在があったようです。当時は、高句麗が北方の強大な国として存在していました。この高句麗に対抗する形で、まずは、百済の南の伽耶諸国を通交し、ついで、さらにその背後の、日本(倭)と通交するようになったようです。
 
仏教の伝来に関してはもとより、医、易、暦、仏像や寺院の製作技術等が百済より、日本にもたらされました。
 
下記の写真は、百済と日本との関係が深かったことを示す例として、よく取り上げられる百済の金銅半跏思惟像(ソウルの国立中央博物館に収蔵)と京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。確かに並べてみると、似ていますね。
 
   
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  <百済 金銅半跏思惟像><京都広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像>
 
   
百済は古代4国の中で最も広い平野に恵まれ、豊かな農産物を武器に貿易を行い、経済的に豊かな国だったようですが、660年に新羅、唐の連合軍に滅ぼされてしまいます。
 
日本も、百済復興のために出兵しますが、白村江の戦いで敗れてしまいます。
 
戦乱を逃れて、百済から日本にやってきた人たちがもたらした文化の影響を受け、飛鳥文化が花開いていくことになります。
  
  
■古朝鮮以降の概略年表
 
BC2333 檀君朝鮮建国
 
BC11世紀半ば 箕氏朝鮮建国
 
BC195 衛氏朝鮮建国
 
BC108 漢が3郡(楽浪郡、臨屯郡、真番郡)設置(翌年に玄菟郡を設置し4郡となる)
 
BC1世紀初 高句麗勃興
 
BC57 新羅建国
 
BC37 高句麗建国
 
BC18 百済建国
 
360年代 百済、伽耶南部と通交
 
369 百済、倭へ遣使
 
562 新羅、大伽耶を滅ぼす
 
660 百済滅ぶ
 
663 白村江の戦いで倭軍全滅
 
668 高句麗滅ぶ
 
 
今回は、駆け足での、歴史紹介でしたが、機会があれば、もう少し、紹介していきたいと思います。
 
 

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