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縄文土器の変遷 その1

縄文時代は土器の様式により草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分されています。
当ブログでも「 縄文時代はなんで土器で区分されているの? [1] 」で投稿されています。
 
この投稿に各時代の代表的な土器と写真がありますのでご覧下さい。
今回は各時代をもう少し詳細に見ていき、土器の変遷とその時代の生活様式にも迫って見たいと思います。
(この投稿は主に 比較文化史 [2] というサイトから引用させて頂きました。) 
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■ 文 様 の 原 点 (縄文心象より [5]
『文様は装飾のために機能し、同時に集団としての共通理念や価値基準を表現し、確認する機能を本来持っている。』
集団内に共通理念があれば共通の文様が存在するというわけである。
共通理念とは生活の中でどのような事を価値あるものとして認めるかという事であり、わかりやすく言えば「価値観・生活観」だ。それを支えているもの。その形を抽象化して表現したものが文様の出発点だ。

■ 草 創 期 (比較文化史より)
 草創期もっとも古いと考えられている土器は、大平山元Ⅰ遺跡から出土したものであり、無文の土器片になる。これは旧石器時代から縄文時代に移行する端境期(はざかいき)に出現する神子柴(みこしば)・長者久保(ちょうじゃくぼ)文化のものであり、隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)以前であることは間違いない。無文から出発して、やがて土器に文様を施すようになる。そう考えるのが順当だろう。
 はっきりした文化圏が出現するようになるのは前期ごろになってからであり、定住することと密接な関連がある。この時代は旧石器時代とおなじように遊動が基本であり、定住化に向けて少しずつ変化している。その原因のひとつが土器に他ならない。土器は重く、移動生活に適していない。また、水や食物を入れて溜めることができる。これは保存とは違う問題だが、おそらく旧石器時代には「食べられるときに食べる」という食習慣だったはずで、おなじ量であっても数回に分けて食べるようになったと考えられる。当然、腐るまでの数日間ということだが、一定量を入れるようになれば、土器はさらに重くなる。このことも定住を促していく要因のひとつと思われる。
 草創期の代表的な隆起線文土器は東北から南九州まで分布する一方、北海道では有舌尖頭器を含む石器をつかっていて土器は出土していない。このことから、少なくとも土器は北海道起源ではないことがわかる。また、土器を共伴しない以上、縄文時代ではなく、旧石器時代の後続に位置づけるべきだろう。これは弥生時代でもおなじで、北海道は続縄文文化として定義されている。 
 この隆起線文土器のなかに、縄や紐をおしつけて文様をつける縄文が登場する。
分布は東北南部から中部地方までであり、この地域を起源にする隆起線文は、すこしずつ細くなる傾向をみせ、本州や東北から出土する4期のものを微隆起線文と呼んでいる。
いずれにしろ、隆起線文土器の登場によって、同一の価値観をもったゆるやかな文化圏が成立したものと見なしていい。

■隆起線文土器以前 (比較文化史より)
 前隆起線文土器文化期
 前述のように、この時期は旧石器時代と重なってくる可能性が非常にたかい。土器がいつごろからつくられるようになったのかハッキリとはわからないが、土器をつかって煮るという行為は、「土器」と「煮る」が合成されてはじめて成立する。調理器具としての土器がいきなり完成した状態で成立することはない。土器を焼成しながら、その土器をつかって煮るということはできないからである。
 土器は高温で焼成させたあと、徐々に熱を冷ましていかないと亀裂が入ったり、割れたりする。さらに素焼きの土器は、水を通すという問題がある。水が漏れる。これをどのように解決したのか、現在のところわからない。わからないが、実際につかう前に何らかの加工が必要だと考えられる。
たとえば、でんぷん質の高いイモ類を煮て穴を埋める、などといった方法だったのかも知れない。
 いずれにしろ、この転換をもたらしたのは、気候の変動による影響が大きい。具体的にはヴュルム氷期の終わりが近づき、ナウマン象やマンモス、オオツノジカなどの大型獣が絶滅していったことが原因だろう。
 もちろん食料の確保という問題があるが、社会学的にいうと、社会が狩りに依存していた点も見逃せない。大型獣、あるいは中型獣の大量捕獲は、複数の人間による共同作業でしか成り立たない。
これを行うことで社会が結束され、維持されていた。大型獣の絶滅は、社会の解体に直結する。

食糧を確保するために、より小さな集団へと分かれていき、分散して生活するように力が働く。最終的には家族単位までに分裂する。
 ところが実際は旧石器時代編でみたように太陽を信仰することが行われていて、この意味では共通の価値観をもっていた。これがあったために、完全に社会が崩壊することはない。もともと家族単位の集団が大型獣の狩りのときに集まっていただけ、といえないこともなく、社会という概念が現在の定義とかけ離れたものであることに注意が必要だろう。
いずれにしろ、大型獣の絶滅は深刻な社会不安をもたらしたことは間違いない。その帰結のひとつが土器の製作へとつながっていき、煮るという調理法の確立により植物食の比率が増加したものと思われる。 旧石器時代の終わりごろ、細石刃期には長野県上ノ原遺跡のような祭祀場がつくられる。
少なくともこのような石囲い炉群をつくることに実利があるとは思えないから、深刻な社会不安がおきている可能性は高い。いわば神頼みである。しかし、やがて大型獣は絶滅し、氷河期は終わる。
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       (図解・日本の人類遺跡 45p 東京大学出版会)
 前隆起線文土器文化期の土器は破片であり、全体の形状はわからない。ただ、つぎに登場する隆起線文土器は丸底であり、断面形としては、V字型ないしU字型に成形される。
このことから推察すれば、丸底であった可能性は高い。おそらく、太陽の軌跡を天地逆さまにして、そのまま器形に反映させたのだろう。自然に学ぶというか、世界観が反映されて、形づくられる。
次回は草創期の代表的な隆起線文土器について調べてみます。

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