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インカの婚姻様式②~庶民の婚姻様式は?

こんばんは、saahです。前回のインカの国王の婚姻様式(リンク) [1]に続き、今日は一般庶民の結婚についてみてみたいと思います。
とはいってもインカ帝国自体はもともとのインカ族のほかに、後にインカによって征服された他部族も多くいる為、ここでは『正当インカ族』の庶民(市民)の婚姻に絞ってみたいと思います。
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(「旅の話題・ペルー4」
より拝借しました)
以下、「インカ皇統記」(インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ著)より引用

■一般のインディオの結婚と彼らの構える家庭について
まず知っておくべきは、毎年、あるいは二年毎に一定の時期になると、インカ王がクスコに住む、自分の一族の結婚適齢期にある全ての男女を招集した、ということである。娘は18歳から20歳まで、男は24歳以上でなければならず、それより早い結婚は許されなかった。
一家を構え、財産を管理、運営してゆくためにはそれ相応の年齢に基づく判断力が必要であり、上に述べた年齢より若くしての結婚は児戯に堕しかねない、というのが彼らの考え方だったからである。
さて次に結婚式のやり方であるが、まずインカ王が、向かい合って立っている婚約者たちの間に割って入り、双方の顔を見つめてそれぞれの名を呼び、ついで双方の手をとってまるで結婚の絆でもって結び付けるかのように、2人に硬い握手をさせ、かくして後、2人を傍らで待機している親に引き渡す。
それから皆で新郎の父親の家に行き、そこに近しい親類縁者が寄り集まって、厳粛な結婚式が、二日、四日、六日にわたって、あるいは当事者の意向によってはもっと長い間、続けられるのである。
こうして娶られた女性は文字通り正妻で、彼女にとってきわめて誉れ高いことに、インディオ言葉で、「インカ王の手によって与えられた妻」と呼ばれる。
王が自分の一族を結婚させてしまうと、翌日には、そのために任命された役人が同じ手順で、他のクスコ市民の子女を結婚させるのであるが、その際、上部クスコ、下部クスコと呼ばれる二つの地区ははっきりと区別される。

インカにおいてはまず結婚適齢期とは、“一人前”とみなされる者たちと言う定義があり、その『一人前』と認められた者のみが結婚を許されるということだったようですね。
この様に一人前になった者しか結婚してはならないと言う考え方はインカ族のなかで共認されていた、いわば規範だったのでしょう。
そして結婚相手もインカ王や、あるいは地方長官であるクラーカと呼ばれる役人たちによって認められる必要があり、決して親や自分たちだけで好き勝手に結婚は出来なかったようです。
かつ一家で管理運営する財産(≒土地)とは、あくまでインカ王(又はクラーカ)から分け与えられたものであり、しかも1代限りの土地耕作権のようなものだったようです。(詳細は別途投稿しますので、御期待ください)
同じように、住む家に関しても市から与えられたものだし、家庭内の必需品も周りから与えられたもののようです。

一般庶民の結婚の場合には、新婚夫婦の住む家はそれぞれの市当局によって建てられ、必要な家具は親戚の手によって整えられた。
ところで、異なった地方の、あるいは異なった町の人間同士の結婚は法の認めるところではなかった。混血によって血統や部族が混乱することのないように、婚姻は全て同じ町の中で、そして一族の間で(イスラエルの支族のように)行われなければならなかったのである。

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「西遊旅行」 [5]より拝借)(写真は結婚式の様子でなく、お祭りの風景です)
さて、このように見てくると、結婚は耕作する土地とセットで市から認められて初めて成立するし、家族そのものが土地を耕作する為の1単位としての意味はあるものの、その家族によって所有される財産とは彼らの私物にはなっていなかったようですね。したがってここからは『私権』性は見て取れません。
そこを詳しく確認する意味で、財産の“所有”形態をみてみる必要がありますね。
そこはインカ帝国における支配体制はどうだったのか、という次のテーマで見て行きたいと思います。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございます。

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