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メソポタミアの婚姻制

みなさん、こんばんは~
メソポタミアの追求、シュメールの交易 [1]文字の誕生①~記録の必要性から文字が生まれた~ [2]に続きます
略奪闘争 の火ぶたが切られたメソポタミアを知るにあたって、その婚姻制はどんなものだったのか?は大きな注目点 です。
っと、その前に 、婚姻制は集団や集団の置かれた外圧(気候風土)に大きく左右されます。メソポタミアはどうだったのでしょうか?

砂漠型(ツンドラ、ステップ、砂漠+オアシス、サバンナの4類型がある)と称される風土に進出した遊牧部族は、西アジアにコーカソイド、中央~東アジアにモンゴロイドがいます(林さんの挙げられていたアフリカは一旦おきユーラシア大陸を想定します)。遊牧は、遊牧している野生の有蹄類の群れにくっついて移動する生産様式ですが、梅棹忠夫氏によると、家畜の子どもを人質に取ることによって母親を逃げられないようにして、子どもに乳を飲ませる際に人間が搾りとるという技術と、大多数のオスを去勢することによって群れの中にとどめたまま、群れの統制を保つ技術の、二つの技術を前提として完成したとされています。農耕に匹敵する人工的な加工が施された家畜は、蓄財意識を芽生えさすに十分だったと思われます。
 まして小集団(小氏族)で移動するという闘争集団ゆえに、男原理の父系集団に移行すると、嫁取りのための婚資(=相当数の家畜)を蓄財することを第一義とする私益集団と化していきます。私益集団から掠奪集団が生まれるのは時間の問題と考えられます。

上記は、るいネット『風土、生産様式、婚姻制』 [3]より頂きました。
どうも婚姻制と蓄財意識 とは関わりが深そうですね。
蓄財意識や私有意識は、日本での縄文から弥生への転換点など、他シリーズでも追求中な、歴史を追及する上で大事なポイント になっていますよね。
では、メソポタミアの婚姻制を少しずつ 解明してゆきたいと思います。
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ありがとうございます


当時の婚姻制はどうだったのか? 手がかりは二つ あります
1.シュメール文学作品『マルトゥの結婚』(前2千年紀前半のニップルから出土した粘土板)

シュメール語文学作品のなかでは、若い男による嫁探しを主題とし、しかも民話的特徴をもつ物語は、この「マルトゥの結婚」いがいには、「スドの結婚」(ないしは「エンリルとニンリル2」)をあげるのみである。じっさい、当時の婚約、結婚の手続きをこれほど詳細に記述している文献は、この2テキスト以外には、存在していない。

中身は、研究者でもいろいろ解釈が異なるようですが、

「マルトゥの結婚」でも「スドの結婚」でも、若者はみずからの居所(ガゼル狩猟民の世界、都市世界)を出て、都市の有力者の娘とめぐりあう。結婚にあたって二つの物語とも母親が重要なアドヴァイスを与える。ただし「マルトゥの結婚」では若者の母親が、「スドの結婚」では娘の母親が重要な役割をはたす。「マルトゥの結婚」では、おそらく娘の母親は登場しない。また婚約ないし結婚にさいして、膨大な数の家畜が娘の家に送られるのは、二つの物語に共通する。

(解釈にもよるのですが)、マルトゥの結婚では娘の父親が大量の家畜をマルトゥに婚資として要求する場面があるのです
上記は、 セム系部族社会の形成~「マルトゥの結婚」によせて [6] より頂きました。
2.ハンムラビ法典
これは言わずもがな。みなさん学校で教わったくらい、有名ですよね。
ハンムラビ法典は紀元前1760~1750年ごろに、それまでのメソポタミアの諸法典(おそらくBC2112年から始まったウル第三王朝のウル・ナンム王の法典、そしてBC1934年からBC1924年までメソポタミアを治めたイシンのリピト・イシュタール王の法典など)をまとめる形で成立、制定されたと考えられています。
127条から194条までは結婚や相続などの条文ですが、女性の権利についての記載が目立つことがハンムラビ法典の特徴でもあります。
142条
もし、妻が夫を嫌悪していっしょにいられないといったとき、妻の事情を調べ、妻に過誤がなく、夫が外出がちで、妻を蔑ろにしたときは、妻は持参金を持って実家に帰ることができる

143条
もし妻が、身持ちがよくなく、外出がちで、家を乱雑にして、夫を蔑ろにするときは妻を水に投げ入れらえる

妻の持参金が明文化されていますね。
一方、

ハンムラビ法典においては却って正妻のほかに、権妻(※a.)をも認めており、事実においては、一夫多妻制が一部の社会に行われていた。
婚姻はスメリア文明を経て、バビロン文明の発達したる後も、依然として婦人売買の方法を以って行われた。その婦人の代価なるものは、通常約1Mina(※b.)であって、婦人の父に払われるのであった。この価額は当時の物価、賃金その他の経済価値からみれば、よほど高価のものであり、三人ぐらいの奴隷を買い入れ得る価額のものであったように思われる。
ハンムラビ法典はその古代の法律としては、婦人の地位を尊重しているものである。従って妻の自由意志を害する婚姻の結ばれることを制するために、法典は婦人との自由契約を以ってしなければ、これを娶っても正妻とすることはできないという規定を掲げている(128条)。
※a.権妻について:法典には夫に権妻を娶る権利を認めている。バビロンにおいては妻は入嫁の際に下女を同伴して、これを夫の権妻とする習慣が、永年の間行われていた。この習慣はイスラエル法にも明らかであるように、古セム人の慣習であるという。
※b.1Mana=銀約500g=約60Shekelとなるので、標準的な賃金の3.3年分となる。ちなみに、1Manaは棍棒で人の骨砕いてしまったときの賠償金と同じ(ウルナンム法典第19条)。

るいネット『古バビロンの婦人売買(婚姻)の成立:婚資は年収の3年分!』 [7]より頂きました。
むむ、3.3年分 すごいーっ
でも、この事例だと、夫が妻の父に払っていますね。
うーん。。。 婚姻をめぐっては、持参金やら婦人の対価赤やら支度金やらという言葉が飛び交っています。
持参金は女が嫁ぎ先に持っていくものだし、婦人の対価支度金は、男が嫁(嫁の実家)に払うものっぽい。。。
ちなみに国語辞典(大辞林) をひくと、
婚資とは、
文化人類学の用語。婚姻を正式なものとするため夫方から妻方に贈られる金品や財産。妻の持参財(dowry)を含めることもある。茶

うーん、含めることもあるって
男側からか女側からか、はとても大きな違いですよねぇ。。。
これらの関係は?どのように変遷してきたの?
次はこのあたりを調べて紹介したいと思います

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