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-騎馬民族は来なかったか?-

前回の「私権社会への移行」シリーズからは、北方騎馬民族の系譜をひくものが天皇家の始祖であるという事実が導き出されます。
古代史学会では、江上波夫氏が「騎馬民族説(騎馬民族征服王朝説)」を提起していますが、今なお批判が続いているようです。
今回は、この「騎馬民族説」を-騎馬民族は来なかったか?-宝賀寿男氏 [1]の要約という形で紹介したいと思います。

上古の朝鮮半島南部に扶余系の「辰王」という特異な存在の王があり、この流れをひくものがわが国に侵入し、北九州さらに畿内に転じて征服王朝を建て、崇神・応神にはじまる上古の王統につながった。
こういう発想の学説が戦後出されて、古代史学界の大きな問題となってきた。
今から五十数年前、戦後の混乱が続いていた昭和二十三年(一九四八)のことであるが、江上波夫氏により提起されたいわゆる「騎馬民族説(騎馬民族征服王朝説)」は、戦後になって出された多くの新説の先駆け的な存在であった。

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その「騎馬民族説」の骨子としての内容が、
①東北アジア系の騎馬民族である扶余系の民族が、朝鮮半島南部の馬韓に行って辰王となり、その流れをひく部族が四世紀初め頃に、任那を基地としてそこから北九州に侵入し、倭人を征服して崇神王朝が成立した(いわゆる天孫降臨で、これを第一次建国とみる)。②さらに、四世紀末から五世紀初めにかけて北九州から畿内へ移動し、その地を征服して応神王朝が成立した(大和朝廷の創始で、第二次建国。これが神武東遷伝承に反映)。
というものとされる。

こうした理解であれば、私としても、江上説を支持する点は少ない。
なぜなら、古墳文化の前半期と後半期との連続性と変化の意味づけなど、考古学的観点で疑問が大きいばかりではなく(この点については、多くの考古学者の批判・指摘が概ね妥当であろう)、騎馬関係の文化や技術は海外との交流によっても受容されることが考えられるからである。
また、崇神・応神の出自等をはじめとして、天皇家や朝廷の主要豪族の動向などの事情からいって、古墳期に関しては、文献的にも江上氏の説く騎馬民族説を支持しそうな資料は、管見に全く入っていない。
応神にせよ、崇神にせよ、部下もなしに一人で大々的な征服戦を遂行できるわけではないが、それにもかかわらず、外地から随行してきた具体的な部下や配下氏族の名が史料に全く見当たらないという事情にもある。
英雄一人だけの歴史行動を考えるような英雄史観は、現実的ではないし、極めて問題が大きいといえよう。

江上氏のいう「騎馬民族説」については、これをそのままの形では認めないにしても、「日本古代の民族・言語・神話など文化的諸要素の特質の解明にも示唆を与えるものが多い」と『日本史広辞典』(山川出版社)では記述されており、笹山晴生著『日本古代史講義』でもほぼ同旨で記される。
いいかえれば、民族・言語・神話など文化的諸要素の特質については、列島内に騎馬民族ないしツングース系民族との関係を思わせる要素が強く見られるものが現実に多数あり、その観点からの検討を抜きにして、上古日本ないし日本国家の起源の探索はできないのではなかろうか。

江上氏の唱えた騎馬民族説には、渡来時期等で大きな問題があったとしても、日本人の形成や古代国家の起源といった問題を考える場合、朝鮮半島ないしはその北方につながる方面から日本列島に渡来した民族が全くなかったとはいえないはずである。
列島に渡来してきて天皇家につながる民族があったとしたら、どのような民族で、どのような性格・習俗であったか、その渡来時期はいつだったか、という問題を具体的かつ十分に検討する必要があろう。

○騎馬民族が渡来した可能性のある時期
一般的な理解だと、四世紀前葉の崇神の時代より前ではともかく、それ以降では列島外部からの大きな侵入は考えられない。
記紀に記される朝鮮半島との交渉記事をどう解釈するかという問題にもなるが、四世紀後葉以降では大和朝廷はむしろ半島方面に出ていっており、この時期に半島からの侵入・征服事件があったとみるのは、侵攻方向が逆転しているということにもなろう。
江上説でも、崇神の王朝は南朝鮮と北九州とに地歩を築いて、そこから近畿地方に侵攻したものと考えているから、必ずしも片道通行ではないが、こうした同時両面作戦では、好太王碑文に見られるような倭の大規模な侵攻が、朝鮮半島中央部まで及ぶ形で間断なく展開できたのだろうか。
神武自体の出自についても、それが直接、外地から渡来したとは考えられない。
記紀にいわゆる「天孫降臨」が南朝鮮からの渡来だったと考えたとしても、それは神武の二世代から三世代前の時期に渡来したものとなろう。
それでも、天孫降臨を主導した高皇産霊尊主宰の「高天原」には外地的な雰囲気が見られず、わが国への渡来時期としては、それより更に遡る時期を考えることになる。
以上、文献学的に見ても、考古学的に見ても、少なくとも四世紀代以降に(さらに、私見では二世紀代以降に)、征服民族の日本列島渡来・移遷を考えることには、大きな無理があろう。
こうした考えは、現在の騎馬民族説批判説とほぼ同様である。
喜田博士等も天孫族の弥生期渡来を考えており、岡正雄氏もおそらく二、三世紀の頃として、江上説より少し早い時期を考えている。

○列島に来た可能性のある民族系統
上古代のある時期に日本列島に渡ってきて先住民を征服、建国した民族があったとしたら、それはどのような民族だったのだろうか。
日本列島の成立が一万数千年ほど前ではないかともいわれるので、渡来の時期が上古代のいずれにせよ、朝鮮半島南部を基地にして、そこから舟で渡って来たと考えるのが最も自然であろう。
(なお、列島内にもともと牛馬が殆どいなかったとすれば、当時の航海・造船技術ではこれらを舟で運んだとしても頭数には限界があるので、上古朝鮮半島南部に騎馬組織をもつ政治統合体があって、この騎馬組織をまるまる保持しつつ日本へ渡来したと考えることには、そもそも無理がある。)
弥生期に金属文明(とくに鉄器)をもって渡来してきた可能性を考えるべき民族としては、朝鮮半島からその北方の中国東北地方に古代時居住したものがあげられる。
具体的には、扶余のほか、匈奴や鮮卑・烏丸といった東胡系の民族もあった。
匈奴には、天の子と称した君長(単于、可汗)、万世一系の王統(単于位は冒頓の男系子孫に限定)、王統と特定異姓氏族との通婚、即位儀礼、シャマニズム、嫂婚制・姉妹婚制、殉死などの特徴があり、これらは皆、上古の天皇家(遠祖)をめぐる状況に通じるものがある。
ほかに特別の事情がない限り、朝鮮半島からその北方にかけて広く分布するツングース系か東胡系の民族かが日本列島へ渡来してきたとみるのが、最も自然であろう。
この系統の民族でも、天の子とか天孫という思想や太陽神信仰が顕著に見られ、高句麗や扶余の建国神話には神武東遷伝承や吉備平定伝承に通じるものがある、と指摘されている。

宝賀氏の論文は、引き続き、いったい、どのような証拠があれば、征服王朝を作ったような民族の渡来・移動があったといえるのであろうかという視点で、①地名、②トーテム、③考古学遺物、④人骨等、⑤言語という領域から検証が進められています。
宝賀氏は、この論文内で、次のように論及しています。

民族や国家の起源に関わる議論が、日本の過去の朝鮮半島(及び中国東北地方)に対する支配の正当化あるいは同化政策や、逆に朝鮮民族の日本に対する優越性等々の差別史観の主張に用いられるとしたら、これまた日韓(朝)両国にとってたいへん不幸な事態といわざるをえない。その一方、過去の征服なり侵略なりの道義的・倫理的な問題は勿論あろうが、古代における史実の探求は、これとは別問題である。

価値観念に縛られることなく、私たちも追求を続けたいと思います。
興味のある方は、是非、本文を一読されてはいかがでしょう?

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