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「縄文と弥生の境目」、朝鮮半島から「縄文人」が渡来した?

○「縄文と弥生の境界」についてmukaiさんの後を受けて、「試行私考 日本人解剖」 [1]からの紹介です
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試行私考 日本人解剖第3章 ルーツ 弥生人の出現(2) [4] 
このシリーズでは、縄文と弥生の境界について本格的な追求をしており、6月2日のmukai さんの投稿を継いで紹介します。
この「弥生人の出現(2)」をまとめると以下のようになります。
1 北部九州では所謂うりざね型の顔を特徴とする渡来系弥生人の人骨は、水稲栽培が始まったとされる時期より500年後でしか見つからない。
2 北部九州での水稲栽培開始時期の遺跡から出土する人骨は縄文的特長を有している。ところがその骨は当時の朝鮮半島に特徴的な「支石墓」という墓に埋葬されている。(つまり「縄文人」が「弥生人」の墓に埋葬されている?
3 北部九州の板付、菜畑両遺跡からは、朝鮮半島で見つかるのと同じ農工具が出土していて、水稲農耕の技術は直接的には半島から伝わったことは確実視されている。
4 そこから2つの仮設が導かれる。
①水稲農耕も技術は半島から由来したものの、人の移住はなく、実際に営んだのは縄文的特徴をもった在来集団だったという説
②稲作には、農耕の技術だけでなく、季節や天候の観察、祭祀(さいし)など様々な分野の文化が伴う。また、潅漑(かんがい)施設などその場所に適した水田づくりが行われ、高レベルの技術が展開されていたことが分かるといい、「伝聞や見まねだけで可能なものではなかった」と言う説。
5 この2つの仮設を統合すると、まだ少数だったはずの渡来系弥生人だけでは人手が足りず、稲作は初期の段階から縄文型の在来集団と協力しながら営まれたと考えられる
6 一方北部九州の遺跡群から見つかる弥生中期の人骨は5000体を超す。このうち縄文的特徴を持つのは1~2割で、残りは大陸的特徴の渡来系弥生人のものだった。
7 北部九州では、弥生初頭から遺跡が急増する。渡来系弥生人ではなく、縄文的特徴を持つ集団が稲作で人口を急増させたとすると、弥生中期に渡来系弥生人がこれだけの割合を占める説明がつかない
8 現代の朝鮮半島には、縄文人と同じmtDNAの型を持つ人々がいる。縄文~弥生という古い時代から、半島に縄文人型のmtDNAを持つ人々がいたと考えるのが自然で、彼らが渡来して「支石墓」に葬られた可能性はある
9 弥生時代初頭に、縄文人と同じDNAを持ち、同じ姿形をした半島人が渡来していて、彼らが水稲農耕を持ち込んだ可能性も否定できない。
※旧来の教科書的解説では、日本に古代から住んでいた縄文人の中に、ある時期、半島から弥生人がなだれを打って押し寄せてきたと言うイメージがありましたが、この説が正しければ、約500年間に渡って半島から、元々縄文的遺伝子を持った人々が徐所に日本へ渡ってきて水稲栽培を行っていたことになります。
まだまだ縄文と弥生の境目にはなぞが多く、興味が尽きません。 

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