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【渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである】

弥生時代というと、渡来人が稲作技術を持ち込み、あっというまに日本を席巻し、本源的な縄文文化を破壊し戦争→私権社会を築いたという認識のもと、否定的にとらえていたのですが、これは固定観念にすぎないのかもしれません。
この気づきを与えてくれた投稿が、るいネットにあったので、紹介したいと思います。
渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである。るいネット:田野さん [1]

弥生時代は多くの渡来人が稲作の技術をもって訪れ、たちまちに縄文文化を凌駕した。鉄器やガラス細工といった工芸が定着し、土器も縄文時代よりうすくて赤みをおび、模様がなく形も整った土器が使われるようになった。又、環濠集落に代表されるように、集落外周を堀で固め、戦闘、防衛が有ったことを伺わせ弥生集落の特徴的なことの第一義として挙げられている。これらは考古学的資料の少ない時代(根拠が薄い)に作り上げられた教科書的に言われている弥生時代への固定観の一つにすぎないことが、最近の縄文-弥生論争で明らかになりつつある。

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一つずつ疑ってみたい。
まず大量の渡来人があったという件。
これは縄文晩期の寒冷化と中国の統一に起因するところが多い。
渡来した民は前漢が朝鮮を侵略したのとは違い、基本的には逃げ延びた民である。おそらく航海技術をもっていた漁民たちが中心だったろう。一方急激な寒冷化で、食料を求めて南下した民には農民もいただろう。稲作という技術をすでに持っていたが、南へ生活の地を求めてなんとか辿り着いたというところではないか。
彼らは単発で訪れ縄文人と対峙するが、侵略の意思がないことは迎える縄文人も理解したのではないだろうか。数字的には大量の渡来人はあったのかもしれない。しかし、稲作の技術をもって友好的に訪れた弥生人は縄文人と融合することで、かろうじて自らの生活の場を確保できたのだろう。

この辺の状況は、渡来人の出自(2)るいネット:橋口さん [4]の投稿が参考になります。

弥生時代に関係する中国大陸の民族移動の様子について、安田喜憲著「龍の文明・太陽の文明」の中に以下のような記述があります。
>四千年前頃、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が大きな力を持って南下し、ついに長江流域に生活していた苗(ミャオ)族など、三苗(さんびょう)とよばれる太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ三千年前以降の気候の寒冷化は龍族の南下に拍車をかけた。かくして、太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、稲作と太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。
安田氏は北方の畑作・牧畜民によって南方へ追いやられた稲作・漁労民が東シナ海に逃れ、対馬暖流を北上して九州南部(隼人)へ、さらに九州北部を経由し出雲へ、最後は富山の越の国へ至る「南方渡来説」の立場のようです。そして、朝鮮半島から北方の畑作・牧畜民が日本列島に渡来するのは弥生時代後期から邪馬台国の時代と区分されています。
渡来人の第一波は南方からであり、弥生時代の基礎を創った。その後、第二派が弥生時代の後半に北方より押し寄せ古墳時代の基礎を創ったと考えると弥生時代が判りやすくなるのではないでしょうか。つまり、縄文を最基底にした三層構造の塗り重ね度合いが地域差として現れているのではないでしょうか。

再び、田野さんの投稿に戻ります。

文化が異なる複数の民族がそう簡単に共存できるのか?という疑問は確かに残る。その素養が弥生人の側より縄文人の側にすでにあったことを認めなければならない。1万年にわたる縄文時代は三内丸山での中国文化の浸透に見られるよう渡来人の受け入れの歴史でもあった。
異文化と接触することでそのいい所を吸収するという価値観は縄文時代から育まれていたと見る事はできるのではないか。

第一波は命からがら逃げ延びてきた人々です。彼らがいきなり日本を征服するほどの力を持っていたとは考えられません。何とか受け入れてもらう中で、役に立つ技術を提供しながら、融合していくしかなかったのではないでしょうか?
●そう考えると、弥生時代からひきおこされる戦争というのは、どのような経緯で始まったのでしょうか?第二波の連中?それとも侵略意思を持った第三派?
●同時に、農耕が戦争の引き金になるのかも追求していきたいと思います。
今回は、上記2つの問題を提起して、次につなぎたいと思います。
それでは、次の方、よろしくお願いしま~す

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