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道教の本源性を探る~『道徳経』の教えより

>④道教の根っこはどこにある?
 ・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。リンク [1]
さて、今回は道教について調べてみました。
以前に、『道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範』 [2]においてその本源性を紹介しましたが、今回は『老子』から『道徳経』の紹介です。
『道徳経』とは、中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記され、『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。
中国には数千年にわたって人々の心に大きな影響を与えた書として、『易経』、『論語』、『道徳経』の3つがあります。
『易経』は夏・商・周の時代の原始宗教が残したもので、その中に古い巫史文化の形跡を見ることができます。
『論語』は儒家の祖師孔丘の教えを伝えるもので、その中には周代の父権宗法社会の礼教の特徴が見られます。
『道徳経』は周代の史官老が著した道家と道教の典籍で中国の最も古い母系氏族社会の原始宗教の伝統を受け継いでいる、と云われています。リンク [3]
母系氏族社会の伝統とはどんなものか!?、覗いてみましょう!
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『道徳経』は八十一章からなる短文で構成されています。
その中から、気になった箇所を紹介してみます。(こちら [6]の訳文をお借りしました)
●第八章
 最上の善とは水のようなものである。
 水はあらゆるものに利益を与え、争わない。
 このように、水は「道」に近いものである。
 我々は住むために、地味な場所を好む。
 いろいろな考えのためには、奥深さを好む。
 友だちとの交わりには、心やさしさを好む。
 言葉には、誠実さを好む。
 政治には、良き秩序を好む。
 出来事においては、能力を好む。
 行動においては、正しい時を好む。
 このように、我々は争わないから、まちがうことはない。

●第九章
 なにかを手にもって自慢するなら、それをもたない方がよい。
 富裕で高い地位にあって自慢すると、不幸を招く。
 仕事が完全に成しとげられ、その任務が充分に終われば、自分の地位を去る。
 これが「自然」の道である。

●第十四章
 しっかりと見ないから、何も見えない。
 しっかりと聞かないから、何も聞こえない。
 しっかりとつかまないから、何もつかめない。
 遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。
 これが「道」の本質である。

●第十三章
 名誉と不名誉は我々を興奮させる。
 つまり、我々は苦しみを自己にもつからである。
 大きな苦しみをもつ理由はただ自己を有することによる。
 自己を有しなければ、どこに苦しみがあろうか。
 自己と世界とを同一にすれば、そのとき、自己の中に世界はある。
 自己を愛するように世界を愛するならば、そのとき、自己の中に世界はある。

●第二十一章
 徳に固有のものは「道」のひびきである。
 測りがたく見えにくいが、そこには本質がある。
 本質は実に純粋で、そこには生き生きとした真実がある。
 我々はそれによって万物の始まりを見る。
 万物の始まりはこれによってわかるのだ。

●第二十三章
 「道」を学ぶ者は「道」と同一になる。
 人が徳に達すると、その徳と同一になる。
 人が徳と同一になると、徳もまたおのずから人と同一になる。
 人が失うものと同一になると、失うものもまたおのずから人と同一になる。
 この同一性を信じなければ、これは起こらないだろう。

●第四十六章
 天下が「道」によって治められるとき、馬は畑を耕すのに使われる。
 天下が「道」によって治められないとき、馬や武器は辺境のそばにまで増殖する。
 欲望の罪より大きい 罪はない。
 満足するのを知らないほど大きな災いはない。
 征服することよりも大きな誤りはない。
 だから、足りたと思うことで満足できれば、いつでも充分なのである。

●第四十九章
 賢人には定まった心はない。
 だが、人々の心をその心とする。

いかがでしょうか?
作られたのが春秋時代だから、支配者に対する戒めや国家統治における方法などに関する記述が多いのですが、『道』(万物の理か?)に同化して『徳』を積むことの重要性を繰り返し説いています。道教はたしかに、万物の法則や共認原理を原点にしているようですね!
(by eto)

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