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時に協力、時に対立していた渡来系弥生人集団

Posted By mukai On 2008年6月2日 @ 9:00 PM In 弥生ー律令時代の国造り | 6 Comments

どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのだろうか。?
前回、「縄文と弥生の境目:共存のディテール [1]」で、近畿地方では縄文晩期の土器を使う縄文人系の集落と遠賀川系弥生土器を使う渡来系弥生人の集落が100~150年間併存していたことを紹介しました。
今回も同様に他の地域ではどうか見ていきたい。今回も産経ニュースの-文化-学術-に「試行私考 日本人解剖 [2]」と言うシリーズの中からお借りして届けします。
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水稲農耕を取り入れた地方毎の「弥生」の始まり
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 ≪技術交換≫                      

日本列島の各地で「縄文の壁」を乗り越えながら進んだ弥生化。
水稲農耕を取り入れた地方ごとの「弥生」の始まりは、前述の年表のようになる。
表中に示したのは、各地方の縄文晩期と水稲農耕が始まった時期に使われていた土器や、水田農耕とともに北部九州から西日本一帯に広まった弥生土器である「遠賀川系」の名称。年代は、これらの土器の付着物などを国立歴史民俗博物館がAMS-炭素14年代測定を行った結果に基づいており、従来の年代よりもおおむね早くなっている。
年表から読みとれるように、近畿地方では縄文晩期の土器を使う縄文人系の集落と遠賀川系弥生土器を使う渡来系弥生人の集落が100~150年間併存していたことは前回紹介した。同様の状況がみられる瀬戸内地方ではどうか。
弥生時代前期の集落跡と水田跡が近接して発見された岡山市の津島遺跡の周辺には、やや北側に津島岡大、旭川を挟んで東方約4キロの地点には百間川沢田という縄文晩期の2つの集落跡がある。3つの遺跡は同時に存在していた。
津島遺跡からみつかる遠賀川系土器と、2つの縄文遺跡から出土する「突帯文土器」という縄文晩期の土器を精査した小林青樹・国学院大栃木短大准教授によれば、津島集落が出現したのと同時期の津島岡大遺跡の突帯文土器は、大半が色の暗い褐色だが、明るい茶褐色のものが幾つかあった。これらの製法は弥生土器と同じとみられるという。
一方、津島遺跡の遠賀川系土器には、縄文系の技術が盛り込まれていた。「それぞれのムラ(集落)の土器製作者の交流があったようだ。ムラの領域も一部重複していて、製作者に限らず住人同士がやりとりする『共生』関係にあった」と小林准教授。

≪情報、物資の共有≫

考古学では、弥生時代の始まりとともに列島に「戦い」が持ち込まれたとする説が広く支持されている。
水田稲作伝来から100年余りのちに北部九州に出現して各地に広まった環濠(かんごう)集落や、瀬戸内から大阪湾沿岸各地にみられる高地性集落には外敵から集落を守る色彩が強いためだ。
600年後以降は、頭部がなかったり金属製の武器で傷を負ったりした人骨も多数発見される。
ただ、「戦い」は弥生人集団同士に限られ、渡来系弥生人と在来縄文系集団の間ではほとんど起きなかったと考えるのが一般的である。
国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎准教授は、水稲農耕伝来当初の北部九州では、簡単な農耕も行う狩猟採集民の在来系縄文人が、渡来系弥生人とともに水稲農耕集団を形成したケースがあると考える。
福岡市の板付、那珂遺跡の集団で、「渡来系弥生人にとって、在来縄文系の人たちは潅漑(かんがい)施設も備えた大規模な水田の造成・営農の労働力となるほか、獣肉や皮、石木材などの資源や配偶者を確保するためにも必要だった。在来縄文系の人たちにとっては水稲農耕に協力することによって道具やコメを確保でき、双方にメリットがあった」。
小林准教授は、遠賀川系土器の文様は東北の縄文文様がモデルで、北部九州で渡来系弥生人と東北縄文人が協力してつくったとの説を唱える。「当時の東北縄文人は南西諸島と交易するなど活動範囲が広かった。好奇心も強く、新たな文化を視察しにきていたのではないか」という。
当時は気候が寒冷化しており、「新たな食糧源を確保する目的もあったかもしれない」。

 ≪緊張感も≫

一方で、渡来系弥生人と在来縄文系の人々との間の激しい摩擦を想起させる遺跡もある。
弥生時代前期(前4世紀)の神戸市新方遺跡では、石の矢じり(石鏃(せきぞく))が射込まれた人骨3体が出土。
うち1体には石鏃が17個も刺さっていた。彼らは低身長で在来縄文系だとみられる。
石鏃の材料は、当時の渡来系弥生人たちが盛んに使っていた香川産のサヌカイト。
在来の縄文系集団と渡来系弥生人集団の間の抗争の犠牲者とみることも可能だ。
津島遺跡に近いもうひとつの縄文系遺跡、百間川沢田集落の人々にとっても、渡来系弥生人たちは友好関係を結ぶ相手ではなかったようだ。津島ムラの出現時期以降、石鏃の所有数が大量に増加していて、「弥生人の到来を相当な緊張感をもってみていたようだ」と小林准教授。
藤尾准教授によれば、福岡平野に流れ込む河川の中流域では、下流域の板付、那珂両遺跡などより200年程度遅れて在来縄文人が農耕民化した四箇遺跡(福岡市)のようなケースがある。その背景にも、水稲農耕で人口が増加してテリトリーを拡大しつつあった下流集団と緊張関係にあったことが指摘されるという。
時には対立もしながら在来縄文系集団と協力し、列島に広がっていった渡来系弥生人集団。両者の関係をさらにみていきたい。(小島新一)


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[1] 縄文と弥生の境目:共存のディテール: http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/05/000510.html

[2] 試行私考 日本人解剖: http://search.sankei.jp.msn.com/resultarchive.aspx?q=%8E%8E%8Ds%8E%84%8Dl%93%FA%96%7B%90l%89%F0%96U&cp=932

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