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マヤの国家間の闘争形態とは?

マヤ文明には、数多くの遺跡が残されていますが、その政体や規模や統治の仕組みについては、長年学者の間で議論されてきました。すなわち、広域的な都市国家連合のようなものが在ったのか、また、多数の小国が乱立していたのか・・・275px-Tikal.jpg [1]
しかし、マヤ人自身が残した碑文の解読により、その政体が少しづつ解ってきました。例えば、古典期のマヤの王国は、複雑な階層序列や親族の絆を持ち、同盟との戦いを繰り返していたようです。
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例えば、「ティカル」は「ナランホ」と敵対関係である一方で「カラコル」を支配従属関係とし、「ヤシュハ」とは王家同士の親族関係・・・といったように多くの都市国家が、各都市国家と複雑に絡み合い戦争を繰り返していたようです。
そこには、優越王と従属王というように序列関係があったのです。最も有力な国家群はライバルの「神聖王」を支配下に置こうとしていました。しかし、優越王が従属国の内政に影響を及ぼすことはまれであったとも言われています。
このことから推測されるのは、マヤ世界における「戦争」は、相手を滅ぼし、根絶やしにする征服ではなく、序列を共認するための手段ではなかったのかということです。
あくまでも王の序列を競い合い、一旦優劣関係を共認すれば、当面はその関係を維持しつつ、双方の都市国家(共同体)が維持されるというようなものではないかということです。
ここでは、実際に国家間の関係がどのようなものだったのか「ティカル」のでの1つの事例を参考に見ていきたいと思います。
ティカルの支配
そびえ立つティカルのピラミッド群で有名な古代都市ですが、全盛期の8世紀には6万人の人口を有していたと見られています。そして約800年という長きに亘って、33人の王の歴史が記録されています。(紆余曲折はあったにせよ、800年国が続くというのはめったにないですよね。)                                               Maya_15_F.gif [4]
引用~「古代マヤ王」歴代史(創元者)
ワク・カブナルの陥落
ティカルの神殿4にある一連の木製リンテル(建築材)のうちのひとつに、この戦争と、その出陣前の準備、その後の戦勝祝賀儀礼が記録されていた。744年2月にティカルはワク・カブナル「6の大地」に「星の戦争」を仕掛けている。ここは「四角い鼻の怪物の都市」と記されていて、おそらくナランホ王国の首都のことであろう。前述のように「四角い鼻の怪物」は、ナランホ王朝の神話的創始者の名前である。それに続く部分では、ヤシュ・マユイ・チャン・チャークの守護神像を略奪し、勝利の行進を行なったことをを詳細に記している。ティカルの木製リンテルには、この行進に使われたらしい巨大な輿のような図像が彫られており、そこに座るティカル王の足元の台座部分に、ナランホの紋章文字が書かれていた。これはリンテルに書かれた文書の中で言及されているティカル王により奪われたナランホの玉座を表わした物であろう。また同時に、この像は、敗北した王国を象徴するのによくもちいられる捕虜の図像にかわる表現とも考えられる。
・・・・略
上記は一例ですが、上記の書籍を紐解くと、戦いで捕虜をとって生贄にしたり、政略結婚をしたり、あの手この手で相手国に対して優位な関係を構築しようとしています。そして、自分が支配者であることを文字として知らしめるのが各地に残る碑文です。
これらの戦いは、あくまでも権力者が覇権を争い、序列を競い合うためのもので、民衆も巻き込んだ全面戦争になった形跡は見て取れません。
そしてふと思うのですが、これは「サル」のボス争いに似ているように思います。つまりボスの力が衰えてくると若く強いオスが、ボスと戦い力の優位を認めさせて新たなボスの地位につく。集団のメンバーは、ボスが交代すると新しいボスに従うというだけでのことです。戦いはたまにエスカレートしますが、普通はむやみに戦いを激化させず、「力の序列」が認められればお終いです。ただ、勝った事をしっかり碑文に刻み込むことが人類としての一歩優れたところでしょう。
こうやって、主従関係を構築すれば、しばらくは都市国家間の関係が維持されるという仕組みなのかなと思います。
このようにしてマヤの代表的な都市国家ティカルは800年も存続したのではないでしょうか?
ご意見まってまーす。

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