- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

水田稲作は縄文人も求めていたから拡大した

縄文時代から弥生時代への変遷は縄文晩期のBC1000年ごろから北九州を中心に波状的に拡大していき弥生時代前期には近畿まで拡がっていきました。この1200年間が大きくは日本における私権社会への転換期に当たるのですが、この期間に何があったのか?どのようにして縄文社会は渡来人の文化に取り込まれていったのか?しばらく方々のサイトを探索して事実に相当する記事を集めていきたいと思います。
渡来人との融合、水田稲作の伝播により社会構造は大きく変化していきます。
今回はHP「日本人の起源 [1]」さんより紹介させていただきます。非常に的確に分析しており弥生前夜の水田稲作の伝播についての状況がよくわかります。リンク [2]
水田稲作は大きくは渡来人の縄文人支配の結果ではありますが、そうではない、”縄文人が大陸に技術を盗みに行った”という歴史事象も残っています。以下、NHKレポートをまとめた記事です。ちょっと、とんでもですが・・・。
応援よろしくお願いします
Blog Ranking [3] にほんブログ村 歴史ブログへ [4]

—従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300~1800年前)頃に、朝鮮半島方面からやってきた渡来民によって始まるというのが定説であったが、莱畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることがわかったのである。
なぜ縄文人だと考えられるのか。それは発掘された生活道具が、すべて縄文文化に由来するものだったからである。皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、みな典型的な「縄文土器」であった。
 土器文化の異なる渡来人が、わざわざ土着の縄文土器を作るとは考えにくい。こうして日本最初の水田が、縄文人によって開かれたことが判明したのである。発掘のデータによると、菜畑の集落は海岸沿いに立地し、人びとは半農半漁で暮らしていたこともわかっている。もともと朝鮮半島に交易に出かけていた縄文人とは、九州北部の沿岸地帯に暮らし、航海技術に長けた漁労民であった。彼らは唐津近隣の松浦あたりで産する黒曜石を、交易の品として持ち出していた。このことは韓国の東三洞貝塚で出土した黒曜石などの産地を同定した結果、確かめられている。
こうして水田に関する技術を身につけて帰ってきた縄文人は、得意の漁労を営むかたわら、日本列島に水田稲作の第一歩を印したのである。—

先に挙げた曲り田遺跡では家根祥多によれば、出土土器の2/3が縄文土器であったが、菜畑遺跡では殆ど全部が縄文土器で占められていたとのことである。このことから水田稲作技術を菜畑にもたらしたのは縄文人自身であったとNHKは結論付けている

%E6%B0%B4%E7%94%B0.jpg

筆者は第1部11節で詳しく検討したように北部九州と朝鮮半島は縄文時代の長期に亘って交流があったことを指摘してきた。だから安田の“朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない”という指摘は十分同意できる。また改めて検討するが、南朝鮮に縄文人や弥生人(あるいは倭人)のコロニーのような地域があったとしても不思議ではない。
韓国南部の慶尚南道は、隣接する全羅南道と並んでいまも大水田地帯がひろがる韓国のコメどころである。対馬からほど近いこの慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人びとが渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は、縄文人がやってきた確かな証拠品といえる。朝鮮半島では鈷や鏃といった漁労具や狩猟具に最適な黒曜石が産出されない。このため朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやってきたのではないかと考えられている
。—

kyuusyuunokokuyouseki.jpg
縄文人は三内丸山でも明らかなように船舶技術を駆使して遠方まで交易を行うことが既に5000年前から可能になっていました。3000年前の北九州で朝鮮半島と頻繁に交流が進んでいたとしても不思議ではありません。著者はこの事を以下のように分析しています。

菜畑・曲り田段階の水田農耕をもたらした人々は、以下のように推定できる。
・NHKがまとめたように「技術を習得し持ち帰った縄文人」もいたであろうし、
・南朝鮮の縄文人コロニーと関係のあった南朝鮮人を農耕技術者として同行してもらったということもあったであろう。  
・もちろん新しい農耕技術を身につけた南朝鮮人が寒冷化した南朝鮮から、より温暖な新天地を西北九州に求めて縄文人に協力を求めたこともあったろう。
しかしこのケースでもやみくもに西北九州沿岸に上陸して当地の縄文人と仲良く共同生活をしたという絵空事ではなく、実態は慎重に事前に受け入れ先の縄文村を選定し交渉してから渡来したものであろう。こうした人々ではなかったかと思うのである

いずれにしても、水田稲作の日本列島定着には単に渡来人が持ち込んで広がったという一面的な要因だけではないようです。農耕技術は縄文人も切に求めていたからこれほど早く日本列島に広がった。そのように見るほうが正しいと考え始めています。
※サイト紹介「日本人の起源」
このサイトは伊東俊幸さんという方がご自身で勉強されて執筆しています。
縄文から弥生にかけての歴史事象を緻密に押さえられており、データーも豊富にあり非常に優れたサイトです。しばらくはこのサイトからいろいろ勉強をさせていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。 😀   by tano

[5] [6] [7]