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本源集団の生産ー消費にセットで必要な相互扶助のシステム

こんばんわ。tanoです。
今日は縄文時代の生産シリーズ第2弾をお送りします。
1.縄文人の労働とはどんなだった?
2.過剰生産のない縄文社会。
3.相続のない縄文社会。
2番目の過剰生産のない縄文社会です。
縄文時代の生産と消費活動はどうだったんでしょう?
生産と消費の間に蓄財というものがあります。とかく現代は不安が多い世の中。
ある程度貯金がなければ不安になってしまいますよね。
しかし縄文社会には蓄財という観念がほとんどありませんでした。
なぜ蓄財をしなくても生きていけたのでしょう?
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今回も久慈 力氏の著書「三内丸山は語る」より抜粋させていただきました。

過剰生産のない社会
縄文時代は総じて食料も生活物資も豊かな社会であった。自然が豊かな恵みを与えてくれてたので、獣を捕り尽したり、魚を捕り尽したり、植物を撮り尽くしたりすることがほとんどなかった。縄文人の末裔と考えられる東北の山の民には「きのこが3本あったら、1本は山の神のために、1本は動物の為に残し、1本だけいただく」という教えがあるが、縄文人たちもきっとそのようにしたであろう。そうすれば自然の恵みが枯渇する事はない。季節的に保存が必要なものは、乾燥したり、土器や倉庫にとっておいたが、過剰食料を貯めこむ必要を感じなかった。余剰物はあったが、過剰生産物はなかった。獲得した食料は平等に分配した。

縄文時代と同じような段階にあったアメリカン・インディアン社会での余剰物の分配については、ヘンリーモルガンが「アメリカの先住民のすまい」の中で述べている。
>「イロコイ諸部族の間では、所帯を構成する人々が畑を耕し、収穫を集め、共同の蓄えとして住居の中に貯蔵した。ただ、多かれ少なかれ、生産物の個人所有や個々の家族の所有という事はあった。たとえば、皮をむいたトウモロコシは、その皮で幾束にも束ねられてそれぞれの部屋につるされた。しかし1家族の備えが底をついた場合には他の家族が必要なだけの食料を、蓄えのあるかぎり与えた。狩猟や漁猟にたずさわる仲間も、獲物を共同の蓄えにした。
その余剰物は帰ってから各所帯ごとに家族の間で分配され、また保存処理されて、冬の食料用として貯蔵された。村としては食料を共同貯蔵することはせず、むやみに食料を分け与える事はしない。分配は所帯に限られていた。ただし窮乏状態に陥るとさいごは歓待のしきたりから救助の手がさしのべられた。古代のイロコイ諸部族の制度がこうしたものであることはまず間違いない。彼らの間に明確な形をとって現れる慣習は、いずれも、おそらく同じ状況下の他部族のあいだに存在するといえよい。なぜなら他部族も同じものを必要とするからである。」

縄文時代の著者の見解、イロコイ族の事例報告、共通の事項があります。
生産活動は必要なものだけを確保する。⇒過剰には捕らない
余剰物は冬の食料用としてのみ確保した。⇒過剰には貯蔵しない
余剰物は基本的に平等に分配された。⇒分配のシステム
窮乏状態には救助の手が差し伸べられた。⇒相互扶助のシステム(イロコイ族のみ)
縄文人とイロコイ族の違いは集団内の単位に所帯があるかないかだけです。所帯があるから必ず私有意識が芽生えるのではない事はイロコイ族の事例を見れば明らかです。私有意識の元に家族という父系集団が構成されて始めて上記のシステムが崩壊し始めるのです。私有意識で覆われた私権社会へ移行して初めて過剰生産、蓄財が始まっていきます。
注目すべきはイロコイ族の「歓待のしきたり」です。
所帯という単位を認めたため、芽生え始める私有意識を放散させる為に作られたのでしょう。
裏返せば、共同体や本源集団といえども、共同生産、共同消費だけではなく、いざという時の相互扶助がセットされていることを忘れてはいけないと思います。
余剰物を必要以上に持たない縄文人は時に集団ごと飢えに苛まれたでしょう。しかしそのときこそ所帯を持たない縄文社会では贈与関係にあった近接する部族間で「歓待のしきたり」は実行されたのではないでしょうか?

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