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縄文集落の規模と分業

前編に引き続き、今回は「縄文集落の規模と分業」についてレポートします。
早期2万人、前期10万人、中期26万人、後期16万人と推定されている縄文人。
彼らの集落規模と、そこでの分業を追ってみたいと思います。
今回も、参考にさせて頂いたのは縄文文化と現代 [1]です。
(一部編集、並びに参照文中の引用元は割愛させていただきました。)
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【小規模村落】

長野県山ノ神遺跡では、10戸40人程度と推定されている。
千葉県若葉区桜木町の加曾利遺跡では10戸内外と推定されている。
前期後半、神奈川県横浜市では5軒の集落があり、多摩丘陵では2,3軒の小集落が形成されていた。
東京町田市の多摩丘陵の遺跡群では、一時期に5-10軒の住居が5群の弧状に配置され、中央広場をかこむ「定形的な集落構造」をしていた。
小規模住宅か、小規模住宅の集団が、多くの地域の平均的な集落規模であろう。
外国でも、現在の狩猟採集民、熱帯雨林農耕民の社会は「比較的規模が小さ」く、25人(北米西部のグレート・ベイスン)、一拡大家族から100人(アマゾン)、200人(ニューギニアのツェンバガーマリン)であった。

【大規模集落】

しかし、森と川と海の食料が豊かであれば、かなり大規模な集落が展開する可能性があった。
縄文早期末ー前期中頃には、そうした東国地域が森・海の幸と泉の豊かな地域などとなっていた。
木の実のアク抜きには豊富な泉が必要であり、泉など水量の豊かなことも不可欠であった。
1974年から、東京八王子市の遺跡群(狭間遺跡、椚田遺跡、要石遺跡、小比企遺跡)のうち、椚田遺跡が本格調査され、住居跡45軒が発掘され、「直径150mの円周上にならぶ、300軒以上の大環状集落」だったと推定されている。
1974年、東京文京区動坂遺跡で、中期住居跡22軒が確認され、同遺跡のある駒込公園内では重複分をあわせると50件が確認されている。
東京小金井市貫井遺跡でも、中期後半の集落群があり、住居跡40軒が発掘されている。
同武蔵野市の多摩ニュータウン遺跡(中期後半)では、「乞田川と三沢川の分水界から北に向ってのびた小さな丘陵の尾根筋」に住居跡31軒が発見されている。
1975-93年、函館市中野A、B遺跡野発掘で「早期前葉から末葉の竪穴住居跡」407軒が発掘された。
ただし、「同時に存在した住居数は少数の単位に過ぎない」とも指摘され、407軒が同時に存在したわけではないが、相当数の人口がいたようだ。
1992以降、青森県の三内丸山遺跡の調査で、前期(約7,000~4,500年前)の中葉から中期後葉までの竪穴住居跡約6百軒(市が野球場建設を予定していた4haだけでも8百ー1千軒と推定)、掘立柱建物跡約20棟が発掘された。
世界最古の文明といわれるオリエント・シュメール文明がチグリスユーフラテス河沿いに展開したのは、前4000-3500年ころであり、従って時期的には富文明のシュメール文明よりも非富社会の三内丸山遺跡が古いといえよう。
三内丸山では、40haの地域に三内丸山を拠点集落(長期持続力があり、大型祭祀施設、大規模墓域を備え、水運要所である場所)として地域集落群が展開して、縄文前期50軒200人から縄文中期100軒500人(根拠は盛り土、土器の数)が定住していた。
都市とは、富とそれを取得する権力者の拠点(首長の館、神殿、専門手工業者、水道施設など)であるから、富とそれを掌握する権力者のいない状況下にある三内丸山を安易に都市ということはできない。
従来の縄文集落との違いを強調するために、「縄文都市」という用語を使いたい気持ちは分からないではないが、学問的とはいえないのである。
ここでは、ヒエ、ヒョウタン、豆類、エゴマ、ゴボウなどの栽培食物もあった。
この三内丸山が縄文時代の最大の集落人口とされている。
自然諸条件に応じて、このムラ人員規模は決まったはずであり、扶養できない人員は周辺に散在させて、小規模な「衛星」ムラを造らせていたであろう。
ほかにも、青森県六ヶ所村富ノ沢遺跡では、数百軒(530軒を掘り出し)の集落があった。
福島県西会津町小屋田遺跡、同町上小島遺跡、高郷村博毛遺跡なども、「大規模な縄文集落」があった。
当初は血縁的な数家族であったろうものが、数百年の間に血縁的関係を希薄化させた数十・百家族に膨れ上がったのであろう。
最初は小規模の血縁的家族から大家族へと増加することは、決して無理とはいえないであろう。
食料供給能力さえ増加すれば、数万、数十万人規模の集落も出現したであろう。

【栽培農法の限界】

既述のように、縄文時代の大規模集落には食物の栽培が行われていた。
だが、それはあくまで補完的なものにとどまり、食糧生産を飛躍的に高めるものではなかった。
一般に、まだ縄文人は栽培を飛躍的に展開させる技術、能力を持たなかったとされている。
果たしてそうだろうか。高度の能力をもつ縄文人が1万年ものあいだこの技術、能力にめざめないわけがなかったであろう。
栽培農法などが展開しなかったのには、縄文時代固有の理由があったはずである。
それは、縄文人の自然への敬虔な態度であろう。
彼らは、自然の恵みを厚く深く感謝しながら日々食物を採集していたのであり、ゆえに森を伐採したり、原野を耕地に作り変えることは自然の摂理を破る栽培農法となって、「神を冒涜」する行為ではなかったか。
栗など果樹栽培は森の延長であって、自然を改造するものではなかったろう。
人間の作為的「恵み」のために自然を改変することは、実に畏れ多いことではなかったろうか。
栽培農法を展開しようと思えばできたのだが、自然の摂理への深い畏敬の念から「自然秩序を破壊する栽培農法」を本格化できなかったと思われる。

【大規模集落の特徴】

集落規模は大きくなってゆくと、
①相当量の食料を確保する必要が生じるので、それを可能とする植生と確保・保存機能が整備され、
②相当数の人口が居住するので、中央広場をかこむように住居が配置され、墓地域が整備される環状集落が形成されてくる。
①に関して言えば、縄文前期から中期における東北地方における大集落の存在は、「クリを中心とする木の実の豊産と貯蔵(多数の貯蔵穴)」が支えていた。
三内丸山遺跡でもクリが主食となっていたことが出土品から確かめられている。
この環状集落(直径は最小70M-最大150M)には、広場をはさんで、「重帯構造」(建物・施設[貯蔵穴、ゴミ捨て場]を設置する場所が強く規制されているために、新旧の建物・施設遺構が重複する。
集落の長期的計画性を示す)、「分節構造」(住居群と墓地群に区分する構造。中央墓地の周辺には掘立柱建物)があるのである。
こうした作業場(共同貯蓄施設、ストーンサークル、大柱など)、祭祀場、ゴミ捨て場、墓地をつくるには、集落構成員の協力を必要とした。
これは血縁家族の紐帯を強めることになったであろう。
墓域、墓坑列の存在や、掘立柱建物跡群が墓坑列と関連していることは、父系ないし母系の出自集団=血縁的家族集団が長期定住で増加してきたことから、自らの現状の「威儀」つけ、秩序維持などから先祖を祀るようになったからであろう。
また、墓群がいくつかに区分されている場合があるが、これまた、いくつかの血筋があったことを示しているといえよう。
居住地域に隣接して墓域があるということは、血縁一族が生者のみならず死者からもなっていて、生者は厳しい自然のうちにあって不安のなかから死者の再生、保護などを願っていたのであろう。
この自然の厳しさが集落の宗教的動きを背景とした連帯性を促していた。

【分業】

500~1500人規模の集落となれば、呪術的リーダー家系が存在していたであろう。
ある個人が、「季節の順序、雨の定期性、有用動植物の維持等、その部族の生命を左右する諸現象の定期的運行を『司っている』」ような場合、彼が族長となっている可能性が濃厚なのである。
戦後、東京大田区千鳥久保貝塚遺跡の貝層中に年配者の屈葬人骨が発見され、「胸の上に、長さ25cmのシカの角に彫刻をした特殊な装身具がおかれていた」ことから、専業的呪術師が存在したことが推定されている。
東京目黒区油面遺跡、同世田谷区奥沢台遺跡などでは新潟糸魚川産のヒスイ製大珠が発掘され、呪術師ないし首長の存在が推定されている。
また、技術的熟練度に応じて職能集団の分業も生じていたであろう。
家族或いは家族集団を中心として、自らで衣食住などを確保しつつも、共同体内部に分業が端緒的に形成されていた可能性が推定される。
太陽、月の運動、四季の変化など、1年の季節的区切りごとに祭礼を村を挙げて行っていたであろう。
だが、500~1500人規模になれば、総出で狩猟、採集、栽培、漁業などに従事することはできないはずであり、大木の伐採加工、造船、衣服などに分業がみられていたであろう。
また、「堅果類の林では下草刈、根茎類の自生地では潅木の伐採というように、採集時ばかりでなく、端境期の労働が季節的な計画性をもって集約的に行われ」たりしたであろう。
ムラの歴史を暗誦して伝えたり、青少年の教育を行う者もいたであろう。
ソロモン群島のマライタ島では、「土着民は素晴らしき系図学者であり、彼等の祖先の名を記憶しており、且これら祖先の親族関係の各段階を委しく述べることが出来る」のであった。
縄文ムラでも同じように、祖先の名前が暗誦されていたであろう。
そのことによって、一族の連帯性を確認し、厳しい自然にともに生きる絆を新たにしていたであろう。
自然人にとって、一族は、幼児、小児、未婚若年者、既婚男女、老人という類別が行われていたであろう。
特に、ムラの維持には未婚青年の教育は重要であったろう。
高砂族北ツォウ族(1737人)には、集会所があって、それは一族の中止的場所であるとともに、「男子青年の訓練所」となっていた。
三内遺跡にある大規模住居もまた、ムラの中心的会議場、青年訓練場であったであろう。
このムラの最大の特徴は貧富・人権の差が無く、自然の脅威に全員が平等にあたったということであり、日々の生活が自然への畏敬、生活への喜怒哀楽に満ち満ちていたことであろう。
「単系出自集団が組織された要因は、経済的利権を確保する必要性が第一であろう」という見解もあるが、あくまでその地域の食料生産力に応じて血縁家族集団規模が決まったのであり、厳しい自然の中で生き抜くすべとして、各集落は互いに一定の距離をもって棲み分けていたのである。
生産剰余の成立しないもとでは「経済利権」というものは成立しないのである。

【大規模ムラの頓挫】

4000年前頃からの寒冷化などで、大規模村落の維持は困難と成り、周辺に中小規模ムラとして分散していった。
例えば、東京地方では、遺跡数は後期後半には3分1に減少し、後期後半にはさらに激減した。
その結果、周辺の分散集落の血縁的・地縁的関係は維持され、大規模集落のもっていた共同施設・祭祀場・墓域のみは持続されていったであろう。
これは、「異なる環境に進出しての、異種資源に対応した偏差のある生業活動の分散、という有効性を加えて理解すべき」というものではなく、あくまで自然に支配される縄文人の自然適応の試みに過ぎない。
現代的の「資源有効活用」などという視点でみることは適当ではないことは明白である。
なぜならそういう「富」原理で動く社会ではないからである。
従って、「バンド社会ー部族社会ー首長制社会」を「進化の過程」などとみることはできない。
絶えず、自然の脅威でバンド社会に戻る状況があったのであり、自然との関係おいて基本的にいささかも「進化」などはみられないのである。
小山修三氏は、「遺跡にある建物の部屋数」を根拠に早期2万人、前期10万人、中期26万人、後期16万人と推定した。
これは、当時の日本の自然生産力に規定されて人間が集住して生活しうる人口規模を示しており、相互に生命維持範域(「縄張り」)を決め合って、その範囲の食物提供力に応じた集落規模をとっていたのである。
中期26万人は、主としてこうした大規模集落の出現が原因であろう。

集団は、お互いに顔の見える範囲の人数を超えたとたん、その統合が極めて難しくなります。
経験的には、お互いの体感共認をベースとした役割共認→評価共認では、100人ぐらいが限界のような気がします。
それを超える集団を統合するためには、体感共認を超えた観念共認が不可欠となるようです。
>500~1500人規模の集落となれば、呪術的リーダー家系が存在していた
観念による集団の統合。
縄文人が渡来弥生人に飲み込まれていったのは、彼らは「自然の摂理」は対象化できたが、そこに立脚した超集団の統合原理を観念化できなかったからなのでしょうか?

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