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「黄金の国」ジパングと「黄金時代」のオランダ

以前、東インド会社についてのエントリーhttp://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/08/000306.html [1]がありましたが、今回は東インド会社に縁の深い(?)ある国と、日本の関係について、ちょっと調べてみました。
・・・勿体つけてもタイトルに書いてあるんですが(笑)
その国とはオランダ」!!
ヨーロッパの雄といえば、皆さんイギリスやフランス、中世であればポルトガルを思い出すでしょうが、意外や意外(?)実はオランダもすごかったんです。決してチューリップと風車だけが有名なわけじゃないんです
今日はちょっと中世オランダのお勉強・・・その前に いつもの
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さて、まずはオランダの歴史から・・・ちょっと長いけど引用します。http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/newHollnd.htm [4]
中世オランダの黄金時代と、その後の海外進出
ライン川の河口に位置するオランダは、その地理的条件のため、神聖ローマ帝国であった時代から、都市間の移動・運搬手段として船による水上交通が発達し、その延長として北欧や南欧との海上貿易で栄え、富の備蓄が行われました。こうして形成された裕福な商工業者相互の間に、16世紀の宗教改革時代になって、質素・倹約・勤勉を尊ぶカルビニズム(新教一派)が広まり、オランダでは新教勢力が強まっていきました。1555年に退位した神聖ローマ皇帝カール5世は、スペインとオランダを息子のフェリペ2世に譲り、オランダは、新教徒が多い地域にもかかわらず、旧教国であるスペイン領になってしまいました。スペイン王フェリペ2世は、オランダで厳しい新教徒弾圧を開始しました。オランダの新教徒はドイツの貴族オレンジ公ウィリアムを指導者に迎え、1568年に対スペイン独立戦争を開始しました。1581年にオランダ連邦共和国が独立を宣言し、1609年にスペインとの休戦が成立し、1648年にオランダの独立が正式に認められました。このスペインとの休戦成立後の17世紀前半から、オランダはいわゆる「黄金時代」を迎え、経済・文化面で未曾有の繁栄をし、欧州の先進国となりました。しかし、16世紀のアジア貿易を牛耳っていたのはポルトガルで、オランダはアジア産の香辛料等をリスボン港で仕入れ、それらを欧州内で売りさばくことによって大きな利益を得ていました。
ところがオランダにとって運が悪いことに、1580年にポルトガル国王が後継者がないまま死去してしまい、スペイン王のフェリペ2世がポルトガル王位を継承してしまいました。そしてフェリペ2世は1585年にオランダ船のリスボン港寄港禁止令を出して、オランダ経済の息の根を止めようとしました。 いよいよオランダは、富の源泉のアジアの香辛料を求めて、自らアジアへ航路を開拓することを余儀なくされました。 当初、オランダは、ポルトガルの航路とは反対の北回りルートをバレンツ探検隊が探索しましたが失敗し、探検隊は北極海のスパーバル諸島で越冬し引き返してきました。オランダがポルトガルに対抗して敢えて南回り航路を開拓しようと決心したのは、オランダ人の書いた一冊の本がきっかけでした。ファン・リンスホーテンはインドのゴアへ渡り、5年間に渡ってポルトガルのもとで働き、この間に個人的に収集したポルトガルのアジア貿易に関する資料や航路図等をまとめ、1593年にオランダへ帰国した後に「Itinerario」という旅行記を発行しました。これを契機としてオランダのさまざまな都市で貿易会社が次々と設立され、1595年以降、オランダ船によるアジア貿易の航路開拓ラッシュが始まりました。(徳川家康の外交顧問になった三浦按針やヤン・ヨーステンを乗せて1600年に大分に漂着した船もこのようなオランダ船のひとつでした)。多くのアジア貿易会社が乱立し、持ち帰った香辛料等で莫大な利益をあげ会社の競争が激化したところで、オランダは国家利益の促進のため、長い交渉の末にこれらの会社を一つにまとめました。こうして1602年に設立されたのがオランダ東インド会社でした。1600年にはイギリスでも東インド会社が設立されていましたが、当初の資本規模はオランダの方が10倍以上ありましたオランダ東インド会社は、喜望峰からマゼラン海峡までの極めて広範囲な地域における貿易独占権、条約締結権、行政権および司法権を与えられ、軍事力をも保有する国家のなかの国家のような存在でした。また、船の建造などに出資した株主に対し貿易であがった利益に応じて配当を出すといったオランダ東インド会社のシステムは、今日の「株式会社」の起源であると言われています。

以上、引用終わり
実は、冒頭で出てきた東インド会社、オランダが一番の規模を誇っていました。この当時はオランダがヨーロッパ1といっても良い時代だったんですね。
ここで、日本史の問題!
江戸時代、日本は江戸幕府の規制により、長崎県にある出島での貿易しか認められていませんでしたが、実は相手も決められていました。その相手国とはどこでしょう???
はい、オランダです(笑)。ちなみにポルトガルもOKでした。というか元々はポルトガルとの貿易のため(向こうの人間を管理するため)に出島は作られたものですが。
昔話になりますが、小学生当時、授業でこれを聞いた自分は、
「マイナーな国と取引してたんだな。イギリスとかフランスが相手じゃ国を乗っ取られるとでも思ってたんか?」と疑問に感じていましたが、当時の大国と取引していただけだったんですね。「さすが小学生」と笑ってください。
さて、このオランダとの貿易で、日本には蘭学というヨーロッパの知識が流入することとなりました。例えば、医学の進歩などには大変な貢献をしたようです。現在の株式会社の原型とも言われる東インド会社、技術革新のための最先端の学問。大航海時代からの激動のヨーロッパと「黄金の国」ジパングをつなぎ、それが近代日本へとつながっていく。オランダは日本の歴史において、重要な役目を果たしていたんですね。
ポルトガルと胡椒の関係は世界的にも有名ですが、ジパングとオランダが現代日本の礎の一部だということを改めて理解し、やっぱり歴史はまだまだ知らないことだらけだなぁ、と思うのでした。

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