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縄文時代後期になぜ無文土器が登場したのか?

Posted By tano On 2007年11月14日 @ 9:48 PM In 縄文土器・土偶 | 3 Comments

縄文土器には様々な文様が施されています。縄文土器と言えば必ず文様が描かれているよいうのは定説です。特に中期から晩期にかけて土器の文様も形も緻密になり一つの土器を仕上げるのにかなりの手間をかけていた事が容易に想像できます。
しかし、その縄文晩期にあたる長野県の大清水遺跡で大量の無文土器が発見されています。
なぜ文様のない土器が登場したのでしょう?
前回も紹介させていただいた、川崎保氏の「縄文ムラの考古学」から今回も報告させていただきます。
実は大量の無文土器にはトチの実が関係しているのです。
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長野県大清水遺跡は長野県の中央部からやや北より丘状の山に囲まれた長野氏篠ノ井信更町に所在する。信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の中に位置する。大量の無文土器の発掘は今から30年前に著者自身が立ち会って確認している。
調査結果から特徴的なものをまとめると以下の3点になる。

①南の山の迫る北向き傾斜地、周囲は湧水の多い湿原という、縄文集落等の立地条件とは異なる場所に遺跡が存在する。
②20㎡程度の範囲に層を成す大量の灰とともに無文土器片がおびただしい量で残されていた。大量の灰が堆積されているが、火を炊いた痕跡はなく、灰だけの層には遺物が残されていない。
③遺跡の営まれた時期は、縄文時代後期から晩期と巾があるが、主体には後期の半ばから後半である。遺構として明確に確信できるものではなく、周囲を含め集落などに結びつく所見は認められない

また無文土器の調査を行った結果以下の特徴が上げられた。
器形と大きさにおいて斉一性が強いこと、大きさは口径が25cm~40cmのものに集中する。内面はていねいに仕上げられているのに対し外面は継ぎ目が残っても平気なくらい粗略につくられている。
30年前に上記の調査結果を著者は推論した。

*生活の上で悪条件になる日当たりの悪い北向き傾斜に成立した遺跡と言うことは、それに勝る湧水があったからで、湧水こそが遺跡保存の必須条件であった。
*湧水に加え厚い堆積の灰層と多量の堅果類が残っていたことから、木の実を調理加工する前処理として、土器で加熱し中に灰を入れてアク抜きをしていた。
*多量の木の実を短時間で仕上げる無文の粗製土器が集中的に製作消費された。
*すでに初期農耕段階に入っていた縄文人が、食料獲得のシステムのなかで労働生産性を重視した結果、飾らない土器、すなわち機能を目的とした土器が選択された。
→以上からこの遺跡は初期農耕段階によって毎年大量に獲得できる木の実をアク抜きして食料にしていく食料加工場の一部ではないかと考えられる

以上が著者が30年前に大学の卒論で展開した研究成果である。(これだけでもかなりすごい!
その後、30年の歳月を経て著者は以下の結論に至った。無文土器の発掘の実例として読んでいただきたい。
ついに加工施設の発見!
長野県北部中野市栗林遺跡で大きな発見があった。
近年、待ち望んでいた植物質食品の加工場およびその貯蔵遺跡が具体的に姿を現した。
栗林遺跡では日本一長い河川である千曲川を見下ろす河岸段丘上に、縄文時代中期末から後期中葉にかけて集落が営まれる。近接して自然流路の流れる谷上の低地が位置するが、そこに木製の水さらし場状遺構と貯蔵穴群が造られていた。貯蔵穴は78基を数え、直径1.5m~2m、深さ30cm~70cmの規模のものが多い。23基からは堅果類が確認されくり、どんぐり、とちが確認できている。
何の加工場だったか?
アク抜きを必要とする堅果にどんぐりととちがある。著者はこの遺跡をトチの加工場と断定した。
その理由はトチはアクの性質にある。どんぐりがタンニンなどの水溶性のアクに対してトチはサボニンなど非水溶性のアクが含まれている。トチは人間が食べられるようにするには、アクをアルカリ性水溶液の中に入れて中和して取り除かなければならない。トチは粒または粉にしたものを灰汁に入れて加熱する。その後大量の水に長時間さらし、澱粉質の粉にしてはじめて食用になる。内陸部の縄文人は木の実の澱粉質を主食にしていたことは人骨から明らかになっている。大清水で確認された炊き跡のない分厚い灰層はアク抜き用に確保されていた大量の残存灰を示している。
初期農耕と無文土器の関係はあるか?
現在の著者は無文土器が縄文早期から土器組成の主体になった時期もあり、農耕と無文化は直接的な関係はないと捉えている。むしろ無文であった理由としてこの場所が居住域から離れた場所に構築された作業場であり、もちこまれる土器がアク抜き専用に限定されている。従って限定された目的の為につくられた土器として無文化が進んだと考えている。
実際、同時期の関東や東北の地域では製塩用の土器として粗製の無文土器が確認されている。従って無文土器の採用には機能性を追求した結果、装飾性が排除されたと結論付けてよいのではないかと述べている。
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朝鮮半島の文化的影響を受けた弥生土器や九州地方晩期の無文土器は有名ですが、縄文時代の中心地域である長野県でこれほどの無文土器が発見されていたという事は知りませんでした。
しかし実際には縄文土器と言えば装飾と決まっているのではなく、時期にもよりますが装飾している土器もあれば無文の土器もある・・・というのが事実ではないかと思えてきます。

縄文時代の土器は縄の目があるものという固定観念から離れて見ていけば、なぜ土器に文様が施されているかが判ってくるのではないでしょうか?そう考えると、土器の模様が複雑多彩になってきた縄文後期とは装飾用の土器と実用の土器に使い分けが始まった可能性もあります。
大清水遺跡の実例は実用品に無文土器が使われ始める最初の時期だったのかもしれません。同時に土器の装飾性には集団の意識の統合などの明確な位置づけが与えられていたのだと思います。


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